レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2023年08月30日
- 登録日時
- 2023/08/31 11:25
- 更新日時
- 2023/11/12 10:16
- 管理番号
- 岐市図-037
- 質問
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未解決
『岐阜市黒野史誌』p131に「黒野城は秀吉の頃、大沢六左衛門も住みしかと『美濃明細記』巻六にある。『新撰美濃志』もこのことを注記している。」と記述があるが、「大沢(澤)六左衛門」と「大沢(澤)次郎左衛門正重」は同一人物か?
- 回答
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大沢六左衛門については、
『岐阜市黒野史誌』黒野史誌編集委員会/編者 黒野校下自治会連合会 1987 p131
『鵜沼の歴史』栗木謙二/著者 岐阜県各務原市 「鵜沼の歴史」刊行会 1966 p119~123
で名前が確認できたのみ。
『寛政重修諸家譜 第12 新訂』 p126 の大沢次郎左衛門正重の項に「大沢六左衛門」の記述はなかったので、同一人物かは判明しなかった。
- 回答プロセス
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1か月ほど前に全く同じレファレンスを受け、その時使用した資料『寛政重修諸家譜 第12 新訂』 p126 を提供した。
利用者から情報提供があった『各務原市史 通史編自然・原始古代・中世』 p834~838 によると、
「大沢次郎左衛門」が『信長公記』『美濃雑事紀』『濃陽志略』『美濃国諸旧記』に記載があり、
「鵜沼の城主大沢六郎左衛門」が『濃陽諸士伝記』に記載があると分かったので、内容を確認した。
『各務原市史 通史編自然・原始古代・中世』p838には「大沢次郎左衛門が宇留摩城の城主であり、信長の美濃攻略の中に消えていった人物であったことは明らかとなるが、確実な資料は乏しく、その多くを語ることはできない。」とある。
デジタルコレクションで「大沢次郎左衛門」「大沢六左衛門」「大沢六郎左衛門」を検索し、上記資料以外に『鵜沼の歴史』栗木謙二, 吉岡勲 著,「鵜沼の歴史」刊行会,1966,書誌ID000001090608,p.119~123を見つけたが同一人物か特定できる情報はなかった。
上記資料の親子関係の記述があったが『寛政重修諸家譜 第12 新訂』 p126 とは内容が一致せず、また大沢六左衛門の情報がないため、同一人物かを判断できなかった。
- 事前調査事項
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記載があることを確認済 『各務原市史 通史編 自然・原始・古代・中世』1986
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
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- 『岐阜市黒野史誌』黒野史誌編集委員会/編者 黒野校下自治会連合会 1987 p131
- 『各務原市史 通史編自然・原始古代・中世』各務原市教育委員会/編集 1986 p834~838
- 『寛政重修諸家譜 第12 新訂』続群書類従完成会 1965 p126
- 『鵜沼の歴史』栗木謙二/著者 岐阜県各務原市 「鵜沼の歴史」刊行会 1966 p119~123
- 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp (『鵜沼の歴史』栗木謙二, 吉岡勲 著,「鵜沼の歴史」刊行会,1966,書誌ID000001090608)
- キーワード
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- 大沢氏
- 大澤
- 大沢次郎左衛門
- 大沢六左衛門
- 黒野城城主
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000337750