1 「浪華百事談」の年代や作者、内容・特徴について
「浪華百事談」が収めれている『日本随筆大成 第3期2』(吉川弘文館 1976.11)の「解題」の1頁に「浪華百事談」について書かれています。
北川博邦氏によると、
「浪華に関する事項を巨細となく書きつらねており、あたかも浪華百科事典の感がある。先ず浪華の地の境域沿革よりはじまり、神社仏閣の縁起、名勝旧蹟の所在、物産風俗の変遷、更に街談巷説を拾い、また先賢の逸事にまで及んでいるが、さすがに食倒れの地のことを書いたものだけに食物の記事がすくないない」
ということです。
作者は未詳ですが、天保初年に難波神社近くに生まれ、天保弘化頃に幼少年期を過ごした人物だということです。
そのために天保以後のことについては実際に見聞きした記事が多く、「幕末から明治初年にかけての大坂の風俗史資料として好個のもの」といえると北川氏は述べています。
この本が書かれた時期については、明治25年から明治28年にかけてで、作者が60才くらいの頃の作品ではないかと推察されています。
また、付録に記載されている肥田晧三氏の「浪華百事談を読む」によれば、この本は明治45年の朝倉無声『新燕石十種』に収められ、はじめて活字になったとのことです。
2 「大手筋錦蕎麦」「田葉清の蕎麦」について
・「大手筋錦蕎麦」(巻之五:174頁)
「にしき蕎麦と呼て商ふ蕎麦舗は、大手通り谷町筋より少し西の北側にありしなり。三四拾年前は、大坂市中に蕎麦而已うちて売舗は二三軒よりなく、麪類を売る家も、今の如く多からず。殊に此錦そばは古き名にて、其製のよろしきを以て、大手蕎麦とも云ひて、人賞して求しものなり。」
・「田葉清の蕎麦」(巻之六:192頁)
「心斎橋南詰の東半丁計りの処に、天保中、田葉清といへる蕎麦やあり。尤も尋常の麪類店にはあらず。蕎麦のみを商ふ家にて、其頃有名なりし。巻五大手錦蕎麦の条に記す如く、文政、天保の頃には蕎麦のみ製し商ふ家、大坂市中には至て少し。此家の製するもの、尤も佳品なりし。弘化、嘉永の頃迄ありし歟と覚ゆ。」