レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014年03月17日
- 登録日時
- 2014/03/17 19:36
- 更新日時
- 2014/03/18 14:54
- 管理番号
- 20140317-2
- 質問
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解決
浄厳について知りたい。
- 回答
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浄厳 【じょうごん】 コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E6%B5%84%E5%8E%B3 (2014/03/17確認)
デジタル大辞泉
じょうごん 〔ジヤウゴン〕 【浄厳】
[1639~1702]江戸中期の真言宗の僧。河内(かわち)の人。俗姓、上田氏。字(あざな)は覚彦(かくげん)。江戸時代の梵学(ぼんがく)の復興に功績があった。5代将軍徳川綱吉の帰依を受け、江戸湯島に霊雲寺を建立。著「悉曇三密鈔(しったんさんみつしょう)」など。
朝日日本歴史人物事典
生年: 寛永16.11(1639)
没年: 元禄15.6.27(1702.7.21)
江戸前・中期の真言宗の僧。戒律復興,民衆教化,学問研究に足跡を残す近世真言の偉材。河内錦部郡(大阪府河内長野市)出身。10歳で高野山に登り顕密を修学。寛文1(1661)年伝法阿闍梨となったが,のち新安祥寺流を開創し諸流派の統合と修法の革新を図る。同10年,悉曇(サンスクリット)学など講座を開くも,一部から嫉視され下山し郷里で教鞭をとる。根本仏教回帰のための戒律復興に邁進し,延宝5(1677)年延命寺を自説の如法真言律の道場として創建した。・・・
日本大百科全書(ニッポニカ)
浄厳
じょうごん
[1639―1702]
江戸初期の真言(しんごん)宗の僧。字(あざな)は覚彦(かくげん)。妙極堂(みょうごくどう)、瑞雲道人(ずいうんどうじん)と号する。河内(かわち)(大阪府)の人。高野山(こうやさん)で出家し顕密二教を学び、仁和(にんな)寺で広沢(ひろさわ)流の奥義(おうぎ)を極め、さらに各宗の教学や悉曇(しったん)(梵語(ぼんご)学)、儀軌(ぎき)を研究した。当代の真言の巨匠として令名高く、教相(教義面)においては古義・新義に偏らず、事相(秘密の修行面)は40余流を統一して新安祥寺(あんしょうじ)流を大成した。さらに戒律の衰えを嘆じて如法(にょほう)真言律を唱道し、郷里の延命寺を根本道場とした。・・・
国史大辞典
浄厳
じょうごん
一六三九 - 一七〇二
江戸時代の真言宗の僧侶。霊雲寺の開基。新安祥寺流の祖。字は覚彦。はじめ雲農といい、妙極堂・瑞雲道人・虚斎・無等子・朮焉道人・虚白子・三等子と号す。河内の人。上田道雲の子。寛永十六年(一六三九)十一月生まれる。慶安元年(一六四八)高野山に登り、前検校法印の悉地院雲雪を師として剃髪出家し、明暦元年(一六五五)南院良意に従って中院流四度加行をなし、翌年金剛山実相院長快から中院流の両部灌頂を受く。同三年雲雪の示寂に遭い、釈迦文院朝遍を師として同院に移り、高野山学侶に交衆。万治元年(一六五八)六月良意から安祥寺流(安流)の許可を受け、寛文元年(一六六一)正月伝法阿闍梨位の灌頂を受けて安流の正嫡となる。同年七月学侶と行人との諍論を愁訴するため江戸に下向した朝遍に随行して江戸在番屋敷に寓居し、同四年高野山に帰山。この間、江戸市中、鎌倉辺の名所古跡を訪れた。同七年十一月重ねて朝遍から安流の許可を受け、同十二月朝遍に随って伝法阿闍梨位を重受。同十年八月盛順ら十人に安流の許可を授け、『即身成仏義』『悉曇字記』などを講じた。同十一年正月朝遍の示寂に遭い、交衆を辞して家郷に帰る。同十二年春父の俗宅地に如晦庵を営み、天野山にて『理趣経』『菩提心論』を講じ、以後摂津・河内・和泉の地に盛んに講筵を開いた。延宝元年(一六七三)三月和泉神鳳律寺快円から菩薩戒を受け、浄厳と改名。同二年四月から仁和寺にて顕証に随って西院流の四度加行を行い、同七月真乗院孝源から許可を受け、同三年七月孝源の命で鳴滝般若寺の住持となる。在京の間、栂尾高山寺法皷台の聖教を書写。同四年二月、東密では五百年余り中絶していた受明灌頂を再興し、河内常楽寺にて開壇、六人に許可を授けた。同五月泉州高山寺にて自誓して具足戒を受く。同五年五月父の俗宅を改めて延命寺を創立し、翌六年二月受明灌頂壇を開いた。・・・
[参考文献]
上田霊城編『浄厳和尚伝記史料集』
日本仏教人名辞典 / 日本仏教人名辞典編纂委員会編 京都 : 法蔵館 , 1992 4831870072
p.361
じょうごん 浄厳
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 各宗 (188 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 淨嚴 じょうごん
- 真言宗
- 延命寺 河内長野市
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000150709