レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年10月31日
- 登録日時
- 2013/10/31 21:18
- 更新日時
- 2013/11/17 19:39
- 管理番号
- 20131031-2
- 質問
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解決
建築家コンドルについて知りたい。
- 回答
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コンドル Yahoo!百科事典[日本大百科全書(小学館)]
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%EF%BC%88Josiah%20Conder%EF%BC%89/ (2013/10/31確認)
Josiah Conder
(1852―1920)
イギリスの建築家で、日本の近代建築の育ての親。正しくはコンダー。ロンドン生まれ。サウスケンジントン美術学校とロンドン大学で建築を学び、1873年から1875年にかけてウィリアム・バージェスWilliam Burges(1827―1881)の建築事務所で働いた。1876年、英国王立建築家協会の設計競技で一等となり「ジョーン・ソーン賞」を受けた。同年明治政府と契約を結び、1877年(明治10)来日。工部大学校造家学科の教師として教育にあたるかたわら、工部省に属して政府関係の諸施設の設計を受け持った。工部大学校では、1879年に辰野金吾(たつのきんご)ら第1回卒業生を世に送り出して以来、のちに明治建築界の指導者となった多くの人材を1886年まで指導した。一方、工部省関係の設計としては、東京国立博物館(1881)、鹿鳴(ろくめい)館(1883)など、話題の建築を矢つぎばやに完成させた。1888年、東京に建築事務所を開設し、それ以後死に至るまで、東京、横浜を中心に、ニコライ堂(1891)、三井倶楽部(くらぶ)(1917)など、官庁、会社、大使館、ホテル、倶楽部、住宅など手広く数多く設計した。・・・
コンドル
http://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB (2013/10/31確認)
朝日日本歴史人物事典
生年: 1852.9.28
没年: 大正9.6.21 (1920)
明治大正期の「わが国建築界の父」と呼ばれるイギリス人建築家。日本美術の海外紹介者としても知られる。南ケンジントン美術学校とロンドン大学で建築を学び,英国王立建築家協会主宰のソーン賞設計競技優勝の経歴を持つ。明治10(1877)年に来日し,工部大学校の初代造家学科教師として西洋建築学を教える一方,工部省営繕局顧問も兼ねて上野博物館,鹿鳴館,有栖川宮邸などを設計,皇居造営事業や官庁集中計画にも参画した。同23年に官界を退いたのちも終生日本にとどまり,ニコライ堂や三菱1号館,数多くの邸宅を手がけた。建築に対する真摯な態度と誠実な人柄には定評があったが,様式的な影響力は弱く,その業績は技術面に偏りがちであった。なお,絵師河鍋暁斎の弟子として「暁英」の雅号を持つ。<参考文献>『ジョサイア・コンドル博士遺作集』,小野木重勝『日本の建築2.様式の礎』,河東義之『ジョサイア・コンドル建築図面集』
世界大百科事典 第2版
コンドル【Josiah Conder】 1852‐1920
日本人建築家を養成し,日本に西洋建築を実現するために来日したイギリス人建築家。名前は本来はコンダーと発音する。生地ロンドンにおいて,ビクトリア朝ゴシックの建築家バージェスWilliam Burges(1827‐81)の事務所等で修業し,1876年にイギリス王立建築家協会(RIBA)主催のソーン賞設計競技に入賞して一流の才能を示した。翌年(明治10)工部大学校造家学教師として来日,辰野金吾,片山東熊,曾禰達蔵ら多くの建築家を育て,日本の近代洋風建築の基礎を作った。
コンドル【Josiah Conder】 国史大辞典
一八五二 - 一九二〇
イギリスの建築家。一八五二年九月ロンドンに生まれる。南ケンシントン美術学校およびロンドン大学ユニバーシティ=カレッジに学び、六八年からロジャー=スミスとウィリアム=バージェスのもとで建築を学んだ。七八年に英国王立建築家協会(RIBA)のアソシエイトになり、八四年にはフェローに推挙された。七六年、同協会主催によるソーン賞設計競技で栄冠を獲得、同年日本政府の招請を受けて、翌明治十年(一八七七)一月来日した。来日後ただちに工部省技術官ならびに工学寮教師として工部大学校造家学科で教鞭を取り、兼ねて内匠寮にも出仕した。その間、多くの官庁・公共建築の設計・監督にあたると同時に、日本最初の建築学教師としてヨーロッパ十九世紀の建築についてその造形・技術を教えた。明治十七年太政官との契約によりさらに雇傭期間を延長して日比谷諸官庁計画に携わり、同十九年臨時建築局設置後、同局に転じて海軍省庁舎を設計した。また同十九年から帝国大学工科大学建築学科講師を兼任したが、同二十一年退いて、以後は東京三河台町に設計事務所を開設して公私の建築設計に従事した。明治十七年勲四等旭日小綬章、同二十七年勲三等瑞宝章を授けられ、同二十五年帝国大学名誉教授となった。コンドルは大学において日本人建築家を育成したばかりでなく、多くの建築の設計を通じて同時代のヨーロッパ建築を日本に再現する仕事に指導的役割を果たした。彼の作品は七十を越え、上野博物館(明治十五年)・鹿鳴館(同十六年)・ニコライ聖堂(同二十四年)などの大作を含むが、邸宅・別荘・倶楽部の設計は他の追随を許さずその数も多い。またThe Flowers of Japan and the Art of Floral Arrangement(1891);Landscape Gardening in Japan(1893);Paintings and Studies by Kawanabe Kyosai(1911)などの著作もある。・・・
[参考文献]
河東義之編『ジョサイア・コンドル建築図面集』、「ジョサイア・コンドル博士表彰」(『建築雑誌』四〇二)、「名誉会員ジョサイア・コンドル博士を弔ふ」(同四〇三)、小野木重勝「近代建築を育てたコンドル」(『月刊文化財』一七九)
INAX REPORT No.190
http://inaxreport.info/data/IR190/IR190_p04-16.pdf (2013/11/17確認)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 西洋の建築.その他の様式の建築 (523 9版)
- 参考資料
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INAX REPORT
http://inaxreport.info/ (2013/11/17確認)
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INAX REPORT
- キーワード
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- Conder, Josiah
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000139830