レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2023年05月23日
- 登録日時
- 2023/11/17 12:11
- 更新日時
- 2024/01/04 14:19
- 管理番号
- 相-230003
- 質問
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未解決
鎌倉幕府の御家人・懐島景義(大庭景能)について、彼が懐島権守を称していたのは自称か。それとも頼朝公から許された私称か。あるいは朝廷から正式に任官されたのか。
現在『吾妻鏡』を調べているが、ただ権守であることが書かれているのみで、任じられた経緯や時期が記されていない。
- 回答
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「懐島権守」の任じられた経緯や時期について記載された資料を見つけることはできませんでした。ご参考になりそうな資料は以下の通りです。
・『国史大辞典 第二巻』国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1980
p.676に「おおばかげよし 大庭景義」が立項されており「大庭平太・出羽権守・懐島権守などと称した」とありますが、任官について記載はありません。参考文献として「『大日本史料』四ノ一〇、承元四年四月九日条」とあります。
・『姓氏家系大辞典 第三巻』太田亮著 角川書店 1963
p.5279「懐嶋 フトコロジマ」に「尊卑分脈に「景義(同権守、號懐島平権守)」」、「源平盛衰記に「懐島平権頭景義」」、「東鑑巻十五、十七、十九(死)に懐島平権守入道景能」、「地理志料に「(中略)大庭景能・此に居り、懐島権守と称す(中略)建保の亂邑を收めて山城兵衛尉に賜ふ、東鑑に見えたり」」等の記載があります。
・『茅ケ崎市史4(通史編)』茅ケ崎市編 茅ケ崎市 1981
「第一節 懐島景義の活躍」のp.126~127「景義の活躍」に「治承四年(中略)十月(中略)二十三日、相模国の国府(今の大磯町国府本郷)で、初めて論功行賞を行った(中略)従来の所領の領有を確認する本領安堵をうけ(中略)景義ももちろんその一人で懐島を安堵され、おそらくは旧領も与えられたと思われる」等の記述があります。
p.129~131「景義の逸話」に「『吾妻鏡』によれば、建久四年(一一九三)八月、出家(中略)翌五年十二月二日、鶴岡八幡宮の奉行人には大庭平太景能(義)とみえる(『市史』1、古代・中世、一〇二号)。そして、翌六年頼朝が再度上洛することを聞いて(中略)ここではじめて権守と出てくるが、その理由はよくわからない。(中略)東大寺供養の行列の注文に懐島平権守入道として(中略)説明がついている」とあります。
・『日本城郭全集 4』人物往来社 1967
p.170~171「懐島城」に「景能はこの懐島に城を構えて、ここに住むと郷名「懐島」を姓とし、懐島権守と名乗り(中略)当主として活躍した」「『新編相模国風土記稿』によると、城址の広さ七千坪」等の記載があります。
・『鎌倉国宝論集 第2』鎌倉国宝館編 鎌倉市教育委員会 1958
p.33「京鎌倉往還」に「吾妻鏡」「建久元年(一一九〇)十月三日の頼朝上洛の条」「大庭平太景能儲御駄餉」、「大庭景親の兄景能は、懐島円蔵に居館を定め懐島権守景能と称した。浜ノ郷懐島山蔵前寺には景能の墓がある(石野瑛 武相考古参照)」とあります。
※以下の資料は国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されています。
・『官職制度沿革史』小中村清矩著 勉強堂書店 1901
(https://dl.ndl.go.jp/pid/991341/1/124)
p.225(124コマ)「作事奉行」に「治承四年十月大庭平太景義を以て此奉行となし御亭の作事を始められたりとみゆ左れば此れ或いは此職の始ならんか 吾妻鏡」との記載があります。
・『訳註大日本史 五』徳川光圀 撰 [他] 建国記念事業協会・彰考舎 1943
(https://dl.ndl.go.jp/pid/1920565/1/107)
p.174~176(107、108コマ)に「大庭景能」に「平太又懐島権守と稱す」とあり、東鑑〇平氏系図、保元物語、異本保元物語、源平盛衰記の記述について記載されています。
- 回答プロセス
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・歴史人物に関する棚のブラウジングでレファレンス資料を確認
・『吾妻鏡』を確認
・国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索で検索
- 事前調査事項
- NDC
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- 関東地方 (213)
- 日本 (281)
- 参考資料
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平凡社 編 , 平凡社. 東洋歴史大辞典 第二卷. 平凡社, 1941.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001527215-00
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平凡社 編 , 平凡社. 東洋歴史大辞典 第二卷. 平凡社, 1941.
- キーワード
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- 御家人
- 官職
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000341133