レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年09月13日
- 登録日時
- 2013/09/13 18:11
- 更新日時
- 2013/09/13 18:16
- 管理番号
- 20130913-11
- 質問
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解決
陳独秀について知りたい
- 回答
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陳独秀(ちんどくしゅう) Yahoo!百科事典[日本大百科全書(小学館)]
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%99%B3%E7%8B%AC%E7%A7%80/ (2013/09/13確認)
[現地読み:チェントゥーシウ]
(1880―1942)
中国の革命家、思想家。安徽(あんき)省懐寧(かいねい)出身。日本に留学し、東京高等師範学校速成科を卒業。東京で中国同盟会に入り、帰国後、口語(こうご)の新聞を発行した。1911年の辛亥(しんがい)革命に参加したが、一時、日本に亡命、1915年上海(シャンハイ)に帰り『青年雑誌』を創刊(翌年『新青年』と改題)。1916年北京(ペキン)大学教授となる。1918年に李大(りたいしょう)と『毎週評論』を創刊して新文化を提唱し、マルクス主義を宣伝して、五・四運動時期の急進的民主派となった。1920年上海で共産主義グループを組織し、1921年7月に中国共産党が成立すると、五・四運動時期におけるその名声により党の総書記に選出された。・・・
参考文献
坂元ひろ子編『新編 原典中国近代思想史 第4巻――世界大戦と国民形成』(2010・岩波書店)
陳独秀 【ちんどくしゅう】 コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E9%99%B3%E7%8B%AC%E7%A7%80 (2013/09/13確認)
世界大百科事典 第2版
ちんどくしゅう【陳独秀 Chén Dú xiù】 1879‐1942
中国の革命家。号は実庵。安徽省懐寧出身。活動内容からいえば彼の生涯は民族主義者(1900‐12),民主主義者(1913‐20),社会主義者(1921‐28),さらにトロツキスト(1929‐)の4期に分かれるが,中国の社会と政治に最も大きな影響を与えたのは,急進民主主義者として五・四運動期の新文化運動を指導した第2期,そして中国共産党を創立し指導した第3期である。青年時代には反清の革命家として新聞記者,愛国会,秘密結社岳王会等の組織者として活動したが,辛亥革命の失敗が明らかとなってからは,それまでの会党式の組織方法による革命への反省から,国民の文化思想面での革新へと方向を転じた。・・・
デジタル大辞泉
ちん‐どくしゅう 〔‐ドクシウ〕 【陳独秀】
[1879~1942]中国の思想家・政治家。懐寧(安徽(あんき)省)の人。字(あざな)は仲甫(ちゅうほ)。1915年、上海で雑誌「青年雑誌」(翌年「新青年」と改題)を創刊し、旧文化・旧道徳を批判。1918年、李大釗(りたいしょう)と「毎週評論」を創刊して新文化運動を指導。1921年、中国共産党が成立すると初代総書記となったが、1929年にトロツキストとして除名された。著「独秀文存」。チェン=トゥーシウ。
ちんどくしゅう【陳独秀】 国史大辞典
Ch‘en Tu-hsiu
一八七九 - 一九四二
中国近代の思想家、中国共産党の創立者。安徽省懐寧県(安慶市)の人。原名乾生、字仲甫、号実庵、筆名隻眼ほか多数。一八七九年地主の家に生まれて古典的教養を身につけ、十七歳の時、秀才に合格。しかし一九〇一―〇二年第一回の日本留学の時から「民主と科学」に目覚め、第二回・第三回の日本留学で東京高等師範学校速成科、早稲田大学で経験を積み、一五年九月には『青年雑誌』(のち『新青年』と改題)を発刊して新文化運動を唱導。一七年には北京大学文科部長に迎えられたが、一九年五・四運動のとき「北京市民宣言」を散布して逮捕され、北京大学の職を失って上海に南下、二〇年コミンテルン代表ボイチンスキーと会って中国共産党設立に踏み切った。・・・
四二年民主主義者としての自己主張を繰り返しながら心臓病で四川省江津に病死した。六十四歳。著書に『独秀文存』『実庵自伝』などがある。
[参考文献]
郅玉汝編『陳独秀年譜』
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 中国 (222 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 政治史.事情 (312 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 陳独秀 ちんどくしゅう
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000137124