レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018年5月22日
- 登録日時
- 2018/05/29 14:15
- 更新日時
- 2019/07/25 12:25
- 管理番号
- 2018-60
- 質問
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解決
1946年12月21日04:19時に起こった南海地震について、次の2点について知りたい。
⑴横揺れの方向と大きさ
⑵郡中(現在の伊予市)の被害
- 回答
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1946年12月21日に起こった南海地震について、概要としては【資料1】の「愛媛県災害年表」に、以下の記述がある。
惨鼻を極めた南海地震とデラ台風
46.12.21 南海地震〔県土木部監理課〕午前四時十九分水平動三センチ、上下動一センチ五、感度五(古い家が倒れる)の強震があった。被害は全県に及びとくに宇摩郡と南予地方がひどかった。死者二十六名、負傷三十二名、住家全壊百八十五戸、半壊五百二戸、非住家全壊三百六十八戸、半壊二百八十八戸、家屋一部損壊二万三千五百戸、漁船破損五隻、塩田損壊百五十八ヶ所、漁業共同設備全壊破損五十ヶ所、工場倒壊三棟、同流失一棟、同一部損壊十五棟、官公署半壊三棟、道路損壊三百十八ヶ所、橋梁破損二十ヵ所、河川損壊三十ヵ所、海岸損壊四十六ヵ所、港湾破損六ヵ所。道路は路面の陥落、山崩れ、石積崩壊、津波による流失、河川、海岸は石積の崩壊、橋は橋台、橋脚の狂損、落下などである。道後温泉の泉脈も一時閉塞した。この地震の特徴は地盤変動を起し、南予から東予にかけ四十センチ―八十センチの地盤沈下をもたらしたことでこのため爾後の風水害には高潮の被害を受けるようになった(昭和二一年)
(1)について
【資料2】の「第二章 自然環境と風土/第四節 自然と災害/3 地震と地盤沈下」より
比較的近い過去にも、紀伊半島の沖合を震源とする巨大地震が二回起こっている。それは昭和一九年の東南海地震(マグニチュード八・〇)と、昭和二一年の南海地震(マグニチュード八・一)である。横揺れの方向についての記述はなし。
(2)について
【資料3】より
著者が「南海地震の被害状況を克明に報道している愛媛新聞の12月22日から28日の記事の中から、今後の防災・減災対策に役立つと判断される愛媛県各地の被害状況を整理」して書いた論文で、郡中については以下の記述がある。
最たる被害地は伊予郡郡中、松前町で家屋の倒壊は99戸、非住家37棟、死傷者8名を出し惨憺たる震災の光景を呈している。郡中、松前は戦災さながらの惨状…県下で最も損害甚大な震災地郡中、松前に入れば土蔵、土塀、壁はすべて崩れ落ち畳、家財道具が道路に飛び出して戦災さながらの悲惨な様を呈している。全壊29戸(内非住10戸)、半壊102戸(内非住24戸)。特に無残な郡中(港町、灘町)、松前、地蔵町には煉瓦が崩れ落ち屋根に大きな穴が空いて道路には軒瓦が散乱し、町民警護団員が屋根に上がって取りかたづけ修理に道路は通行困難な状態である。
【資料4】より
「愛媛県の被災状況」の項目で、松前について以下の記述がある。
次に県内で最も被害が大きいとされた伊予市・松前町である。(略)「郡中署では発震と同時に非常召集を行い警戒と死者収容に任じたが二宮署長は「強震で歩行不能の時もあった、国鉄南郡中以南(北山崎方面)は全然損害ないが海岸地帯がひどい、また津浪があるというデマも飛んだが海上は全く平穏で事故はなかった、北伊予松山間が目下列車不通だが十二時四十分から開通する見込みだ(後略)」とあり、郡中は海岸地帯は被害が大きいものの、南郡中駅(米湊にある現在の伊予市駅)より南方面は被害が無く、郡中から松前にかけての局所的な被害だったことがわかる。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 社会福祉 (369)
- 参考資料
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- 【資料1】『愛媛年鑑 1954年版』(愛媛新聞社 1953)<当館請求記号K059-2>
- 【資料2】『愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)』 愛媛県 1983 <当館請求記号K200-31>
- 【資料3】『愛媛新聞にみる昭和の南海地震』 (高橋治郎/著 『愛媛の地学研究 第10巻第2号』 2006)
- 【資料4】『愛媛県の地震史―昭和南海地震を中心に―』 (大本敬久/著 『伊予史談 383号』 2006)
- キーワード
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- 南海地震
- デラ台風
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌的事項調査 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000236540