レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2024/01/20
- 登録日時
- 2024/03/01 00:30
- 更新日時
- 2024/03/01 00:30
- 提供館
- 宮城県図書館 (2110032)
- 管理番号
- MYG-REF-230073
- 質問
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解決
仙台藩の藩校「養賢堂」の沿革について記述がある資料を紹介してください。
- 回答
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下記資料に、仙台藩の藩校「養賢堂」の沿革について記述がありました。※【 】内は当館請求記号です。
資料1 仙台市史編纂委員会編『仙台市史』第4巻, 仙台市, 1951年【K225/セ1-3/4】
pp.36-44「仙臺の教育」-「前篇 藩政時代に於ける仙臺の教育」-「第一章 藩政時代の文教と藩學」-「第四節 養賢堂の建設とその沿革」-「一、學問所建設の建議」の項
p.37「(前略)かくて元文元年十一月二十一日仙臺北三番丁細横丁西南角に學問所が設立され、(中略)始めは別に校名をつけなかったが、後に明倫館養賢堂と稱し、主として藩士の子弟を教育した。これが即ち藩學養賢堂の起りである。(後略)」
pp.39-40「二、學問所の創設と移轉」の項
「(前略)明和八年には重村が特に親書された養賢堂の三大文字の額を賜い、翌安永元年から學問所を單に養賢堂と稱すこととなった。(後略)]
pp.65-73「養賢堂沿革年表」の項
p.65「元文元年十一月廿一日 吉村學問所を仙臺北三番丁細横丁西南角(武澤源之進元屋敷)に設け、(後に之を明倫館養賢堂と稱す)(略)」
p.66「明和八年三月廿一日 重村親しく養賢堂の三大文字を書したる扁額を賜う。」
「安永元年七月十一日 學問所明倫館養賢堂を單に養賢堂と改稱す。」
資料2 仙台郷土研究会編『仙台藩歴史事典』仙台郷土研究会, 2002年【K205/2002.6】
pp.271-272「50 養賢堂学頭一覧」の項
p.271「(前略)元文元年6月に仙台城下北三番丁・細横丁角(現在の仙台市木町通小学校付近)に学問所を創立、最初は単に“仙台藩学問所”、後には“明倫館養賢堂”と称し、高橋玉齋をその主立兼目付(後の学頭)として藩士師弟の教育に当たることになった。これが後の“藩学養賢堂”の起源である。(中略)宝暦10年(1760)10月に中心部の現在の宮城県庁のある北一番丁・勾当台通の一角に移転拡充すると共に、附属機関として医学部門(後の医学館)を付加、明和8年には重村自らが“養賢堂”の3文字を墨書した篇額を賜ったところから、以後藩学“養賢堂”と称するようになる。(後略)」
資料3 仙台市教育委員会編『仙台の教育100年』仙台市教育委員会, 1973年【K372/セ1-2】
pp.7-8「第1部 教育100年のあゆみ」-「第1章 養賢堂と寺子屋-藩政時代の教育」-「1. 養賢堂の設立」の項
資料4 仙台市史編さん委員会編『仙台市史』通史編4, 仙台市, 2003年【K225/セ1-13/4】
pp.442-448「第七章 士民の文化活動」-「第一節 藩校と塾・寺子屋」-「一 藩校の創設」の項
資料5 宮城県史編纂委員会編『宮城県史』11, 宮城県史刊行会, 1959年【K201/ミ1/11】
pp.16-20「教育」-「第一篇藩政時代の教育」-「第一章 仙台藩の藩学」-「第三節 藩学養賢堂の創設」-「学問所の創設と移転」の項
資料6 宮城県史編纂委員会編『宮城県史』2, 宮城県史刊行会, 1966年【K201/ミ1/2】
pp.555-558「第十章後期の文化」-「第一節 文教の興隆」-「養賢堂の振興」の項
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 教育史.事情 (372 9版)
- 参考資料
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- 仙台市史編纂委員会/編. 仙台市史 第4巻. 仙台市, 1951【K225/セ1-3/4】:
- 仙台郷土研究会∥編. 仙台藩歴史事典. 仙台郷土研究会, 2002.6【K205/2002.6】:
- 仙台市教育委員会/編. 仙台の教育100年. 仙台市教育委員会, 1973【K372/セ1-2】:
- 仙台市史編さん委員会/編. 仙台市史 通史編4. 仙台市, 2003.2【K225/セ1-13/4】:
- 宮城県史編纂委員会/編. 宮城県史 11. 宮城県史刊行会, 1959【K201/ミ1/11】:
- 宮城県史編纂委員会/編. 宮城県史 2. 宮城県史刊行会, 1966【K201/ミ1/2】:
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000346741