レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2023/02/15
- 登録日時
- 2024/03/20 00:31
- 更新日時
- 2024/03/20 00:31
- 管理番号
- 町田-279
- 質問
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解決
町田市内の忠魂碑はいつ作られてどのような経緯で移設されたのか
- 回答
-
※旧町村の忠魂碑について
M10-C1『町田市史 下巻』
p.765~769「凱旋と慰霊と忠魂碑」の項目あり。
八王子市富士森公園の西南・日清戦争戦死者碑、日露戦争戦没者忠魂碑について詳細にある。
南村の忠魂碑(現在は図師の兜塚公園に移転)
忠生村、鶴川村、堺村、町田町の忠魂碑が図師の兜塚に集められた、とある。
年表 p.24
明治45年 南村、忠魂碑を建立。除幕式を挙行。
以降、町田、忠生、堺鶴川などでも建立(これらが明治45年に建立されたのかは不明)
大正3年 帝国軍人会忠生村分会によって忠魂碑建立
昭和46年 合同慰霊塔、図師かぶと塚公園に完成
旧町村の忠魂碑も移転
※南村の忠魂碑について
M13-C1『東京府南多摩郡南村誌』 町田ジャーナル社 1966年11月
p.36 忠魂碑建設
碑文
建設地 金森字8号1163番の2
敷地壱反歩は神奈川県高座郡大和村公所大谷直治寄附
特志者寄附金716円36銭
除幕式 明治45年3月17日
来賓 麻布聨隊区司令官代理副官大尉黒田栄吉、代議士村野常右衛門、森久保作蔵、
建設から除幕式まで詳しい
M132-C1『金森村の歩んだ道』金森文化遺産保存会 2006年7月1日
p.153 忠魂碑の建設
建設から移設まで
M10-B1 『乃木大将真蹟忠魂碑文掛軸保存記録』 忠魂碑文保存会 1990年
p.6 南村金森字1163番の2(300坪)に建立されていた当時の忠魂碑境内の全景写真あり
町田デジタルミュージアム
写真 「南村の忠魂碑建碑記念」 六曜館 大條秋畝 小川・細野家文書 明治45年3月17日
除幕式当日の写真
adeac.jp/machida-digital-museum/viewer /mp000490200010/049/ (2023年2月15日確認)
写真 「南村忠魂碑の清掃をする児童」 昭和13年頃
adeac.jp/machida-digital-museum/catalog/mp001260-200010 (2023年2月15日確認)
M00-C2『都市史料集成2 3 占領下の行政 東京都公文書館/編 東京都公文書館 2020年
p.195 忠霊塔、忠魂碑の撤去につき報告 昭和22年3月24日
「撤去したもの」の表のなかにあり 南村金森 1-616 昭和22年2月20日撤去
M10-C9『あの頃!その時!』
p.104
乃木希典筆の忠魂碑の原文は将来の保存に自信のなくなった役員が町田市の博物館に保存を依頼したが断られたので、乃木神社に返納した。
※鶴川村の忠魂碑について
M00-B1『東京都忠魂碑等建立調査集』
P.185-186、188
建立:報国忠魂碑 明治39年10月
戦没英霊之碑
M00-C2『都市史料集成2 3 占領下の行政 東京都公文書館/編 東京都公文書館 2020年
P.195
撤去:昭和21年11月15日 鶴川国民学校
移設:昭和46年
M17-C1『鶴川村誌』
P.178-179
大蔵山頂
西南戦争、日清、日露、第一次世界大戦、満州事変、支那事変、大東亜戦争まで
従軍者数、戦没者数
M10-O2『近代学校教育の歩み』
P.76
鶴川尋常高等小学校が創立された 町田市大蔵山1859番地(現在の住所)
※忠魂碑があった鶴川国民学校の位置
※忠生村の忠魂碑について
M15-C1『忠生村誌』
P.146
建立:大正3年
移設:昭和46年合同慰霊塔へ移設
※忠魂碑の撤去について
M00-C2『都市史料集成2 3 占領下の行政 東京都公文書館/編 東京都公文書館 2020年
P.186 ウ 戦災者慰霊塔建立の不許可 昭和22年2月21日
P.188~ エ 忠霊塔、忠魂碑等の撤去につき報告 昭和22年3月26日
P.195 2月20日 南村金森1-616
P.197 南多摩郡忠生村図師 日露役記念碑
M10-C0『戦没者合同慰霊塔ごあんない』1971年
建設までの総括
町田、南、鶴川、忠生、堺地区の戦没者慰霊碑を合祀したいという念願が従来から関係団体及び有志の間にあった。
昭和46年4月26日起工
昭和46年9月30日峻成
忠霊塔の概要あり
建設当初、庭内に建立する慰霊碑は各地区1基、計5基とし、それ以外は庭内地下泰安庫に安置することに決定された。
1992年(平成4年)3月、安置されていた慰霊碑の建立を求める請願が遺族会から提出された。
1993年(平成5年)3月17日、安置されていた9基について建立された。
M10-C0『戦没者合同慰霊塔ごあんない』2016年
塔の高さと外装を変更する改修を行う。
M10-C9『あの頃!その時!』
p.104
終戦直後、米軍の上陸により、太平洋戦争の戦没者の忠魂碑は破壊され粉石として道路に撒かれてしまうという噂から、戦没者忠霊塔の敷地内に埋め隠されていた。
平成4年(1992)3月本会議で掘り起こしの請願が採択された。
都立図書館より借用
『忠魂碑の研究』大原康男 昭和59年7月15日 暁書房
p.153
「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ニ関スル件(昭和20年12月15日)連合国最高司令部参謀副官発第3号日本帝国政府宛覚書 ふつう「神道指令」と呼ばれているー」
「神道指令を受けて日本政府が発した各種の通牒のうち、「公葬等について」(昭和21年11月1日 発宗第51号内務文部両次官通牒)および「忠霊塔、忠魂碑等の措置について」(昭和20年11月27日 公安発甲第73号警保局長通牒)は、忠霊塔・忠魂碑その他戦没歿者のための記念碑や銅像について非常に厳しい取り扱いを指示している。これによって忠魂碑等を新たに建設することが禁じられたのみならず、既設のものもかなりの数が撤去することを余儀なくされた。
p.171
神道指令や、忠魂碑等にたいする措置が出されると否にかかわらず、早急に処理されねばならないことがあった。占領軍の進駐と旧日本軍人の復員が進展するのに伴って、陸海軍の解体急速に進み、昭和20年9月13日まず大本営が廃止され、次いで10月15日に軍令部が長い歴史の幕を閉じた。参謀本部や陸海軍省が同じ運命をたどるのは時間の問題であった。(参謀本部は11月30日、陸海軍省は12月1日に廃止された)そうなったとき、一体陸海軍基地や、そこに建てられた忠霊塔をどうやって維持・管理していくかという問題である。
p.184
「忠霊塔、忠魂碑等の措置について」の全文あり
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (281 10版)
- 参考資料
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- 戦没者合同慰霊塔ごあんない町田市福祉事務所/著町田市
- 町田市戦没者合同慰霊塔ごあんない町田市福祉部福祉総務課/著町田市
- 町田市戦没者合同慰霊塔ごあんない町田市地域福祉部福祉総務課/著町田市
- 町田市史 下巻町田市史編纂委員会/編町田市 (年表p.24、765-769)
- 鶴川村誌鶴川村役場/著国府慎一郎 (p.178-179)
- 東京府南多摩郡南村誌町田ジャーナル社 (p.36)
- 金森村の歩んだ道金森文化遺産保存会 (p.153)
- 乃木大将真蹟忠魂碑文掛軸保存記録忠魂碑文保存会 (p.5-6)
- 東京都忠魂碑等建立調査集靖国神社社務所 (p.185-186、188)
- 都史資料集成Ⅱ3東京都公文書館/編東京都公文書館 (p.186、188、195、197)
- 忠生村誌忠生村村誌編さん委員会/編忠生村村誌編さん委員会 (p.146)
- 近代学校教育の歩み梅田 素門/[著]梅田 素門 (p.76)
- あの頃!その時!中里 猪一/著中里総業株式会社 (p.104)
- キーワード
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- 忠魂碑(チュウコンヒ)
- 忠霊塔(チュウレイトウ)
- 兜塚公園(カブトヅカコウエン)
- かぶと塚公園(カブトズカコウエン)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000347712