レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020年03月02日
- 登録日時
- 2024/02/15 13:43
- 更新日時
- 2024/03/12 15:55
- 管理番号
- 新県図-01562
- 質問
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解決
・「両手がない画家(今町の渓斎)」という論考を掲載する資料
・吉村渓斎に関する資料
- 回答
-
当館所蔵『新潟県郷土資料総合目録』第2集(新潟県立新潟図書館/編・発行 1976)内p388を参照したところ、お探しの論考は(1)の資料に掲載されていました。
また(2)~(4)の資料に吉村渓斎に関する記述が見つかりました。ただし、(3)の資料には大竹渓斎と記載されています。
(1)『雲荘随筆』(入沢逹吉/著 大畑書店 1933)
p221~231に、「両手がない画家(今町の渓斎)」が掲載されています。
(2)『思出の記』(入沢達吉/著 北越新報社 1932)
p32に、吉村渓斎に関する記述があります。(1)の「両手がない画家(今町の渓斎)」とほぼ同じ内容ですが、大正年間に東京帝国大学の田代義徳教授が渓斉を撮影したフィルムについて、「今もそれは整形外科教室に保存してある」と記述しています。
(3)『今町のしるべ』(今町公民館/編・発行 1962)
「4 地域の教育活動」内「3 社会教育」p43に渓斉の私塾「大竹渓斉塾」の創立、場所、内容、記載根拠等に関する記述があります。記述は門弟だった老人の記憶によるもので、「塾主 大竹渓斉は 両手のない人で 口や足で 毛筆をあやつり立派な字を書いたという 町の人達からは「あかめの手ぼこ」と親しまれ 立派な教育者だったらしい」とあります。
(4)『新潟県』明治・大正・昭和の郷土史 第17巻(渡辺慶一/編 久保田好郎/編 晶平社 1982)
p76~77「天皇の侍医頭をつとめた入沢達吉」に、小児麻痺により歩行に支障があった達吉が、両腕の無い渓斎から手習いをうけ、卑屈さがなくなった旨の短い記述があります。
以下は調査済み資料です。参考までに申し添えます。
・『見附町郷土読本』(見附町教育会/編・発行 1940)
・『見附市史編集資料』第55集(見附市史編集委員会/編・発行 1982)
p12~13「入沢達吉」
p91~92「水落幡龍」
・『ふるさと見附の歴史』(見附市史編集委員会/編 見附市 1985)
「近世七、庶民の文化」内p158~160「2 塾と寺子屋」
「近・現代二、日清・日露のころ」内p229~235「庶民のくらしと文化」
・『越佐人物誌』中巻(牧田利平/編 野島出版 1972)
p927~928「水落幡龍」
・『南蒲原郡先賢伝』第2輯(小池三男吉/編 新潟県南蒲原郡教育会 1934)
p179「水落幡龍」
・『入澤家の資料』(入澤家顕彰会/編 中之島郷土史研究会/編 高橋智文/監修 渡邉敏昭 2016)
・『入澤家の資料』2(金子和宏/編 高橋智文/監修 渡邉敏昭 2019)
・『入沢家の人びと』近代医学に多くの足跡を残した医学の先賢(中之島町教育委員会/編・発行 1995)
・『入澤家顕彰会の歴史と資料』(金子和宏/編 高橋智文/監修 中之島郷土史研究会 2019)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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「郷土人物・雑誌記事索引データベース」
- NDC
-
- 個人伝記 (289 10版)
- 参考資料
- キーワード
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- 吉村渓斎
- 大竹渓斎
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 書誌的事項調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000346320