◆参考資料1『三井東圧化学社史』
p.367-368の第2編第1章第1節2に「大牟田,彦島,北海道工業所の体質改善」の項目がある。
「社会人野球界で輝かしい球歴を持つ彦島,大牟田,北海道工業所の野球部が昭和37年(1962)10月から11月にかけて相次いで解散したことは,東洋高圧の苦悩を象徴する出来事であった。」とある。
また、p.367の注「野球部の活躍」に、「社会人野球の最大の大会である都市対抗野球大会に,(中略)大牟田工業所の野球部は30年の第26回大会に初出場し,このときベスト8まで進出した。その後35年から37年まで3年連続で計4回出場した。」とある。
なお、p.916-919の「国内関係会社系譜図」によると東洋高圧化学(株)は、昭和8(1933)年4月に成立し、昭和43(1968)年10月に三井化学工業と合併し三井東圧化学社となるまで存続した企業であり、「東洋高圧大牟田」はその大牟田工業所の野球部であったことが分かる。
野球チーム「東洋高圧大牟田」の活躍を記した資料としては、以下のものがある。
◆参考資料2『都市対抗野球大会60年史』
巻末年表の「福岡」の欄に、第26回(昭30)、第31回(昭35)、第32回(昭36)、第33回(昭37)に出場したチームとして「東洋高圧大牟田」が確認できる。
p.124「第26回大会」の本文及びp.125「MEMO」欄に、大牟田市東洋高圧の小淵泰輔三塁手が当時としては大会史上最高となる打率8割を記録したことが記されている。
また、各試合の出場選手や対戦成績なども確認できる。
◆参考資料3『都市対抗野球優勝物語』
p.108-111「第二十六回大会(昭和三十年)」に小渕泰輔遊撃手が八割の打率で首位打者となったこと、準々決勝で東洋高圧大牟田の春田満明打者のライナーが鐘紡の山下一塁手を直撃したこと等が記されている。
p.132-135「第三十二回大会(昭和三十六年)」に準々決勝で対戦した姫路市と大牟田が延長十二回引き分けから再試合となり、姫路が5-0で勝利したことが記されている。
◆参考資料4「原辰徳家の天国と地獄」軍司貞則(『文芸春秋』59巻2号 1981.2 p.402-409)
原貢氏が東洋高圧大牟田に入部し、その後5年ほどで退部した経緯が記されている。
『サンデー毎日』に当時の都市対抗野球大会を特集した臨時増刊号があり、当館が所蔵している以下の号に、「東洋高圧大牟田」の出場選手とチーム評の記事がある。
◆参考資料5『サンデー毎日 1955年8月1日臨増』
p.21「一応Aクラス…東洋高圧大牟田」
p.25に第26回大会の出場選手一覧とチーム評がある。
◆参考資料6『サンデー毎日 1960年7月30日臨増』
p.41「伸びてきた若手陣」のタイトルで第31回大会の出場選手一覧とチーム評がある。
◆参考資料7『サンデー毎日 1962年7月31日臨増』
p.41「打つ、走る、機動作戦」のタイトルで第33回大会の出場選手一覧とチーム評がある。