レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2008/12/20
- 登録日時
- 2009/04/23 02:10
- 更新日時
- 2009/04/27 14:42
- 管理番号
- 埼浦-2008-071
- 質問
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未解決
「太田道灌状」は太田道灌が文明12年11月に、山内上杉氏の家人、高瀬民部少輔に宛てた書状であるとされているが、高瀬民部少輔は本当に山内上杉氏の家臣なのか。高瀬民部少輔について書かれた資料を探している。
- 回答
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高瀬民部少輔の名がみられる資料は、いずれも太田道灌が書状を送った相手として記述されている資料で、山内上杉氏の家人という通説以外に記述は見あたらなかった。また、高瀬民部少輔について詳しく書かれた資料は見あたらなかった。
『埼玉叢書 4 新訂増補』(国書刊行会 1971)
p3「太田道灌状」の解題によると、「太田道灌が文明12年11月に山内上杉氏の家人高瀬民部少輔に宛てた書状で」とあり。p324「太田道灌状」の最後の部分に、「謹上 高瀬民部少輔(別本『式部丞』)殿(原注『山内家人』)」とあり。
『太田氏の研究 関東武士研究叢書 3』(名著出版 1975)
p293「高瀬は山内上杉の相当の家人であり」
『太田道真と道灌』(幹書房 2007)
p77「山内上杉の家宰に忠景が就任したのは、家宰を助ける奉行衆である寺尾入道、海野佐渡守、高瀬民部少輔らの発言力が決定を左右したことが『松陰私語』や『道灌状』から窺える。」
『新名将言行録 室町時代 講談社文庫』(講談社 1984)
p166「主として『太田道灌』〈太田道灌公事績顕彰会〉による」とされる太田道灌についての記述の中で、「道灌から山内の家臣高瀬民部に送った『長状』の一部が出ている」という記載あり。
『新編埼玉県史 資料編5(中世1) 古文書』(埼玉県 1982)
p635「聖護院門跡御教書写」によると、「扇谷上杉氏の家宰太田資長(道灌)、自身の数々の戦歴を列挙せし書を高瀬民部少輔に送る。」との記載あり。p635 「太田道灌書状写」によると、書状中では(山内)上杉顕定を、「屋形」と書いている。
『日本の武将 26 太田道潅』(人物往来社 1966)
p202-206「太田道灌状」の章中、p203道灌状について、「自分の意を山内顕定に伝えるために、その家臣高瀬あてに書いたものである」という記述あり。
『歴史研究 2007年10月号』
p20太田道灌関連の一級資料として、「太田道灌書状」「太田道灌長状写」「上杉定正状」などが『埼玉県史』所収資料として紹介されている。このうち「太田道灌長状写」の説明に、「道灌が高瀬民部少輔に宛てた長文の手紙で、前欠の写が伝来する」とあり。また、p27長状について、「…自らの心境を綴った手紙を山内顕定の臣高瀬氏に宛てた」という記述あり。
『太田道灌』(青木重数著 新人物往来社 1990) ※小説的要素もある資料
p218-222「太田道灌状」の章中、p218道灌状について、「道灌が山内顕定の臣高瀬民部少輔に出した書状である。この頃は上位の人に直接手紙を出すのは失礼とされ家臣宛とするのが多かった」とあり。
- 回答プロセス
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その他調査済み資料
『日本歴史大辞典 2 増補改訂版』『室町幕府守護職家事典 上』『太田道潅公古文書』『上杉家御年譜 23 上杉氏系図』『鎌倉・室町人名事典』『戦国大名家臣団事典 東国編』『戦国武将の手紙を読む』『名将言行録 上巻 評註』(非凡閣 1942)『少年太田道潅伝』、山田邦明「長尾景春と長尾忠景 (特集 歴史の虚像と実像)」(『日本歴史 1998年5月600号記念特集号』)
- 事前調査事項
- NDC
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- 関東地方 (213 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 高瀬 民部少輔(タカセ ミンブノショウ)
- 太田 道灌(オオタ ドウカン)
- 人物-史料
- 歴史-関東地方-日本
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000054097