レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022/08/02
- 登録日時
- 2023/03/30 00:30
- 更新日時
- 2023/03/30 17:25
- 管理番号
- 0000001535
- 質問
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解決
『石川県史』で安達幸之助が伏見兵学校教授だったとあるが、この根拠を見たい。
- 回答
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安達幸之助暗殺当時明治2年の資料では「兵部省御雇士二等教師に而、伏見練兵場え出役罷在候処」と表現され、明治45年『石川県教育雑誌』102号の記事では「山城伏見練兵場内兵学校に於て、兵学及び英書を教授す」とあったが、1919年『金沢墓誌』で「伏見兵学校」と表現され、それが定着したと思われる。
- 回答プロセス
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(1)『石川県史』第3編の記載は以下の通り。
「明治元年命によりて京都に赴き蔵六に会す。蔵六時に大村益二郎と称し、征東軍の参謀として将に途に上らんとせしが、幸之助を薦めて軍務官二等教授たらしめ、伏見兵学校に兵学及び英語を授けしめき。」(p517)(https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/shosho/detail/orgn/B999000056#canvasId=p23)
(2)SHOSHOの「石川県ゆかりの人物」を検索すると文献一覧が出る。(https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/shosho/furucolle/list/prsn00298)
(3)1919年出版の『金沢墓誌』下を確認すると、以下の通り。
「安達幸之助」に「京都に出て旧師益次郎に邂逅し軍務官に薦められ伏見兵学校に兵学を講ず」(p22)
(4)『石川県教育雑誌』 第102号(1912)「創立当時の功労者略歴(一)安達先生略歴 附、安達幸之助君略歴」を確認すると、以下の通り。
「明治元年徴せられて、軍務官二等教授に任ぜられ、山城伏見練兵場内兵学校に於て、兵学及び英書を教授す。」(p62)
(5)『加賀藩史料』藩末編 明治2年9月4日「安達幸之助、京都木屋町旅宿に於いて斬らる」という資料によると、
「右幸之助儀、兵部省御雇士二等教師に而、伏見練兵場え出役罷在候処」(p1096~1097)とあり。
(6)上記出典は「京都一件」で、おそらく金沢市立近世史料館所蔵(https://jmapps.ne.jp/amhr/det.html?data_id=13493)
(7)アジア歴史資料センターで公開されている辞令によると、明治元年12月「軍務官」というものが正式なようである。(https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F2009090311025225671&ID=M2009090311031725971&REFCODE=C09080327100)
(8)レファレンス協同データベース「明治に大村益次郎が京都に兵学校をつくったが、そのことに関する本はあるか。」(https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000073391)
を見ると、軍務官が設置した兵学校が伏見にあったことがわかる。
- 事前調査事項
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「伏見兵学校」という兵学校は、公的な名称ではなく、文献として見つけられない。
- NDC
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- 伝記 (28 9版)
- 参考資料
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- 1 加賀藩史料 藩末篇下巻 清文堂出版 1980 K209.5/29/16-2
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2 石川県教育雑誌102号 石川県教育会 1912 /K/イシ 石川県教育雑誌 通巻100号~通巻109号(400573333) -
3 金沢墓誌 和田 文次郎∥編 加越能史談会 1919 K280/41
- キーワード
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- 安達幸之助
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000331216