レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年5月16日
- 登録日時
- 2022/10/28 00:30
- 更新日時
- 2022/11/21 14:46
- 管理番号
- 中央-1-0021593
- 質問
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解決
高力氏の家来中村弥右衛門吉照が派遣された北浦和の針ヶ谷陣屋についての資料、本はあるか。
また、その後針ヶ谷陣屋は他に移されたのか。
- 回答
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針ヶ谷陣屋については遺構が残っておらず、詳細な記述のある資料は見つからなかった。
断片的な記述にとどまるが、記載のある以下の資料を紹介した。
また、その後針ヶ谷陣屋が他に移されたかどうかについても、調べた範囲では、明確には分からなかった。
紹介資料の中に、「針ヶ谷陣屋は江戸の中期にはすでに廃されたものらしい」という記述があるため、針ヶ谷に置かれたまま廃されたのではないかと思われる。
・『埼玉の館城跡』埼玉県教育委員会/編 国書刊行会 1987年
p3「5 針ヶ谷陣屋」
「所在地」「交通の便」「土地・所有者」「立地・形態・面積」「遺構」「築造年代」「城主・居住者」「文献・絵図」「関係事項」「伝承・記録」の項目について調査した結果を記載。
・『日本城郭全集 4』人物往来社 1967年
p285「針ヶ谷陣屋」に8行程度の記述あり。
「針ヶ谷陣屋は江戸の中期にはすでに廃されたものらしいが、馬場先など陣屋に関係の深い地名をいまに残している。」 との記述がある。
・『埼玉の古城址』中田 正光/著 有峰書店新社 2001年
p32「針ヶ谷陣屋」
針ヶ谷陣屋について8行ほど記述がある。
“現在の針ヶ谷は北浦和の市街地となっており、陣屋の遺構を求めることはできない。”と記載がある。
・『新編埼玉県史 通史編3 近世』埼玉県/編 埼玉県 1988年
p34 5行目
「中村代官(中村吉照)は足立郡針ヶ谷(浦和市)に陣屋を築き領内の在地支配に当たっているが陣屋跡は北浦和二丁目の三郎山といわれている。また近くの廓信寺は吉照が旧主清長の追福のために開いた寺で、吉照夫人の墓がある。」
・『浦和市史 通史編2』浦和市総務部市史編さん室/編 浦和市 1988年
p19-22「針ヶ谷陣屋と中村氏」という項あり。
・『図説浦和のあゆみ』浦和市総務部行政資料室/編 浦和市 1993年
p111「吉照は、針ヶ谷村(現在、北浦和・針ヶ谷)に陣屋を構えここに住みました。」
p112「三郎山」の写真あり。「北浦和2丁目にあります。浦和郷一万石の代官中村弥右衛門尉吉照が住んでいた陣屋のあとの一部です。」という説明がある。
・『さいたま市地名の由来 地名からわかること』青木義脩/著 幹書房 2013年
p73「三郎山」
「徳川家康の関東入部に際し岩槻2万石の城主となった高力清長は、幕府直轄領の浦和郷1万石を預かった。その地を支配したのが代官中村弥右衛門尉吉照で、その陣屋跡の通称が三郎山である。今はマンションにその名が使われているが、浦和区北浦和に位置する。」と記載がある。
・『わがまち浦和 地域別案内 改訂版』浦和市総務部行政資料室/編 浦和市1992年
p50「7陣屋跡」
「北浦和二丁目の三郎山といわれているところは、浦和領一万石の代官中村弥右衛門尉吉照が居住した陣屋跡である。北浦和小学校の北方にあたる。」と記載がある。
・『うらわ文化 第31号~第40号』浦和市郷土文化会/編 浦和市郷土文化会 1970-1973年
ここに収録されている第38号のp7小島熙「郷土浦和に関係ある人物伝(1)高力清長と中村吉照」に、「中村代官の陣屋跡といわれますのは、「三郎山」「三郎兵衛山」といわれて、現在北浦和小学校の北裏の高台です」という記述あり。
・『浦和のなりたち 再版』但馬太良/著 国史教育研究会 1956年
p35「針ヶ谷」の記述あり。「針ヶ谷には吉照の陣屋のあとだと言われる土地」があったとのこと。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 関東地方 (213 10版)
- 日本の建築 (521)
- 参考資料
- キーワード
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- さいたま市浦和区
- 針ヶ谷陣屋
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000323133