レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年03月31日
- 登録日時
- 2022/05/04 10:37
- 更新日時
- 2022/07/19 14:50
- 管理番号
- 南浦和-1-00079
- 質問
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解決
現在のさいたま市緑区にあった、代山城について知りたい。
詳しい文献がないため、城主であった小久保縫や山田大隅あたりから知ることができればよい。
- 回答
-
見つけた文献は、どれも「武蔵国郡村誌」「新編武蔵風土記稿」から
代山城についての記述を書いたものばかりで、
小久保縫殿助(こくぼるいどののすけ)あるいは
山田大隅の居城だったという内容がほとんど。
回答プロセスにある禁帯以外の〇と△がついた資料を提供。
- 回答プロセス
-
・地域資料の書架をブラウジング
〇S291.34『わがまち浦和 地域別案内(改訂版)』浦和市総務部行政資料室/編集 浦和市 1992
p.227 美園地区 代山城跡(だいやまじょうあと)
大字代山にある。北、西、東が谷で、土塁(どるい)などはないが
崖などは人工が加わっている。
岩槻太田氏の家臣小久保縫殿助(こくぼるいどののすけ)
あるいは山田大隅の館と伝えられている。
南にあたる中野田の冠木(かぶき)というところは
大手門の跡と言われている。
裏鬼門にあたる厳島神社は現在も残っている。
〇S291.34『埼玉ふるさと散歩 浦和市・与野市』青木義脩/著 丹治健蔵/著 さきたま出版会 1992
p.136 代山城の跡が見える。 少しだけ記述があり。
〇S031『埼玉大百科事典3』埼玉新聞社 1981 禁帯
p.256 だいやまじょうあと 代山城跡
浦和市代山900番地付近に所在する安土桃山時代の館跡である。
鳩ケ谷支丘上に位置し、東に綾瀬川が流れる低地を臨んでいる。
形態は不規則であり、遺構は認められない。
岩付太田氏家臣山田大隅(武蔵国郡村誌)、または
小久保縫殿助(新編武蔵風土記稿)の居城と伝え、
もとは東南部以外は沼に囲まれて要害となっていた。
近辺に蔵屋敷、冠木、焼場などの地名が残り、
また山田大隅墓と称する塚が城域内にあるが真偽は不明である。
文献:「武蔵国郡村誌」「新編武蔵風土記稿」
・埼玉県立図書館ホームページ内にある
「埼玉関係データベース(埼玉新聞記事見出し・雑誌記事見出し・人物文献・県内史誌目次)」で検索
“小久保縫” → 1件ヒット
△S213.4『浦和市史 第2巻[1] 古代中世史料編1』浦和市総務部市史編さん室/編 浦和市 1977
p.556 天正18(1590)年5月、岩槻落城とともにその臣小久保縫殿の居城
(代山村にあり)も滅びるという。[新編武蔵風土記稿]
“山田大隅” → ヒットせず。
“代山城跡” → ヒットせず。
・国会図書館目次データベースで検索
“代山城跡” → 瀬戸内海の考古学本がヒット
“小久保縫” → ヒットせず。
“山田大隅” → ヒットせず。
・国会図書館リサーチ・ナビで検索
“代山城跡” → 4件ヒットするが、質問のものではない。
“小久保縫” → ヒットせず。
“山田大隅” → ヒットせず。
・googleブックスで検索
“代山城跡” → 5件ヒット
S291.34『わがまち浦和 地域別案内(改訂版)』浦和市総務部行政資料室/編集 浦和市 1992 は既に提供済
△S291.03『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1980 禁帯
p.526 代山 の項目中
「岩付太田氏の家臣山田大隅または小久保縫殿助の居城と伝える代山城跡があり、
岩槻落城とともにこの城もほろんだという。」と記載あり。
△S291.03『日本歴史地名大系 11 埼玉県の地名』平凡社 1993 禁帯
p.137 代山村 の項目中
「代山城跡があり、戦国時代岩付太田氏の家臣小久保縫殿助が住したと伝える
(風土記稿)」という記載のみ。
×S281.34『埼玉人物事典』埼玉県教育委員会/編集 埼玉県 1998
・webcatplus!で検索
“代山城跡” →6件ヒットするも無関係
“小久保縫” → ヒットせず。
“山田大隅” → ヒットせず。
・google検索
“代山城跡”
→さいたま市立野田小学校のHP内で、「学校周辺>代山城跡」のページあり。
https://noda-e.saitama-city.ed.jp/gakkoannnai/daiyamajoato/daiyamasiro.html(2022.5.4最終確認)
浦和学院高校の裏手にある小高い山が代山城の跡地。
築城者は、岩槻太田氏の家臣、小久保縫殿助で北条氏の滅亡により
廃城になっています。
近くに厳島神社があります。 と記載あり。
・さいたま市内の中央図書館に、浦和市立野田小学校の記念誌が中央図書館にあるが、禁帯
372.13「のだ 浦和市立野田小学校校舎落成記念誌」浦和市立野田小学校校舎改築促進期成会/編 浦和市立野田小学校 1985
・他のブログなどで、「代山城跡の近くに厳島神社がある」とか、「八幡神が」との記載あるので、
業務システムで”厳島神社&S”検索
×S291.34『浦和 No.124』「浦和」編集室 1979
p.46~48 浦和の民話と伝説〈13〉「山口弁天社」が「厳島神社」に
山口新田の厳島神社についてで、代山城跡については記載なし。
・ざっさくプラスで検索(CiNii連携つきで)
“代山城跡” →2件ヒットするも無関係
“小久保縫” →ヒットせず。
“山田大隅” →ヒットせず。
・埼玉のお城に関する本を見てみる
〇S521.82『埼玉の古城址』中田正光/著 有峰書店新社 1983
p.32 代山城
13行ほどの説明あり。
土地の伝承によると、小久保縫殿助が居城したところだと伝えられている。
しかし、いかなる人物かは明らかではない、と書かれている。
×S521.82『歴史ロマン・埼玉の城址30選』西野博道/編著 埼玉新聞社 2005
×S521.82『埼玉の城址めぐり』西野博道/編著 幹書房 2010
×S521.82『埼玉の城址めぐり 続』西野博道/編 幹書房 2012
×S213.4『埼玉の城』梅沢太久夫/著 まつやま書房 2018
・「浦和市史」を見てみる
△S213.4『浦和市史 通史編2』浦和市総務部市史編さん室/編 浦和市 1988
p.147 2行目から
下野田の小久保家は、岩付太田氏の家臣小久保縫殿助(ぬいどのすけ)の
後えいと称しており、縫殿助は代山城を居館として太田氏房に仕え、
代山から寺山にかけて支配したともいわれている。
岩付落城後は帰農し、下野田村で代々名主役を勤めたという、と記載あり。
〇S213.4『浦和市史 第2巻[2] 古代中世資料編2』浦和市総務部市史編さん室/編 浦和市 1978
p.169~170 代山城
『新編武蔵風土記稿』と『武蔵国郡村誌』からの記載と、図344と図345に
代山城の写真、p.451の図346に代山城(厳島神社)の写真が載っている。
p.468に『埼玉の館城跡』という埼玉県教育委員会の報告書に、昭和41年度に埼玉
県内一斉の城館跡調査が実施された結果が載っていると記載あり。
〇S521.82『埼玉の館城跡』埼玉県教育委員会/編集 埼玉県教育委員会 1968
p.1 代山城(山田大隅城)
種別、所在地、交通の便、土地所有者、立地・形態・面積、遺構、築造年代、
城主・居住者、文献・絵図、関係事項、伝承・記録の項目と、白地図あり。
p.201 埼玉県館城跡地名表1 の中に、2番目に代山城あり。
名称、時代、所在地、現況、立地・形態・以降、備考欄があり。
・念のため、さいたま市のホームページ内検索“代山城”をしたが、関連するページは無し。
- 事前調査事項
- NDC
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- 関東地方 (213 10版)
- 日本の建築 (521 10版)
- 参考資料
- キーワード
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- さいたま市緑区
- 代山城
- 小久保縫殿助
- 山田大隅
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000315902