レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021年01月09日
- 登録日時
- 2021/05/13 12:28
- 更新日時
- 2021/06/09 10:16
- 管理番号
- 京歴-587
- 質問
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宇治の火薬製造所について以下のことが知りたい。
1)なぜ黄檗(五ケ庄)にできたのか
2)規模はどのくらいだったか
3)なぜ空襲を受けなかったか
- 回答
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1)について
『京都府の近代化遺産 京都府近代化遺産(建造物等)総合調査報告書』(①)のp.121によると、「五ケ庄に用地が選ばれたのは、すでに設置されていた黄檗火薬庫の存在によるものと考えられる」とされている。
『しらべる戦争遺跡の事典 続』(②)のp.130でも、すでに設置されていた「陸軍火薬庫」(=黄檗火薬庫)の存在が理由とされており、さらにこの「宇治火薬庫」(=黄檗火薬庫、陸軍火薬庫)の成立が陸軍の発足と同時だったと述べられている。
『京都の「戦争遺跡」をめぐる 府下200ヵ所』(③)のp.110では、「一八七一(明治四)年、兵部省は火薬貯蔵庫の設置を決め、黄檗山万福寺の南側を買収しました」とある。
この計画をしたのが大村益次郎であるとするのが『黄檗 : 京都大学化学研究所広報』27号(④)と『大阪砲兵工廠の創設』(⑤)で、④には「火薬庫の建設を計画したのは、兵部大輔(ひょうぶだゆう)であった大村益次郎」、あるいは「大村が大阪に軍隊と兵器工場、宇治に火薬庫をおいたのは、西日本で士族の反乱(西南戦争)が起こると予測していたため、との説もある」、更には「黄檗を選んだ理由は大阪まで宇治川の水運を利用できるため」と述べられている。
⑤のp.21では、大村が「火薬製造所を山城国宇治とするほかは、すべてを大阪城内外に造営すべし、としている」ことが記述されている。
2)について
火薬製造所自体の規模についての具体的な数字ではないが、②のp.130には、「宇治火薬庫」成立のために「万福寺の塔頭と柳大明神の社地を、二回にわたり「上地」させた。上地の総面積は一七三万六五三二坪であった」、「宇治火薬製造所」の設置が決まった際には「一七万余坪の優良農地が買収され」たとする記述がある。
関連事項として、①のp.122には製造所内の一部の工場について平面図が掲載されている。
3)については今回の調査では判明しなかった。
- 回答プロセス
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質問者は『宇治市史』等の資料は調査済みであった。
国立国会図書館サーチで「宇治火薬製造所」を検索してヒットしたものを確認する。
『京都府の近代化遺産 京都府近代化遺産(建造物等)総合調査報告書』(①)のpp.121-122に「旧陸軍宇治火薬製造所施設」の項目あり。
『しらべる戦争遺跡の事典 続』(②)のpp.130-131に「陸軍宇治火薬製造所跡」の項目あり。
この項目の著者である「池田一郎」で当館の蔵書検索システム(OPAC)を検索し、ヒットした『京都の「戦争遺跡」をめぐる 府下200ヵ所』(③)のpp.110-117に「宇治川沿いの戦争遺跡」の項目あり。
次に「黄檗 火薬庫」でGoogle検索してヒットした『黄檗 : 京都大学化学研究所広報』27号(④)を確認すると、火薬製造所に関して記述あり。
また、大阪砲兵工廠に関連することが調査中に判明したので、「大阪砲兵工廠」でOPAC検索してヒットした『大阪砲兵工廠の創設』(⑤)にも記述あり。
- 事前調査事項
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質問者:『宇治市史』など
- NDC
- 参考資料
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- ①『京都府の近代化遺産 京都府近代化遺産(建造物等)総合調査報告書』京都府教育庁指導部文化財保護課編集 京都府教育委員会 2000 (当館請求記号:K0||602.162||Ky6||)
- ②『しらべる戦争遺跡の事典 続』十菱 駿武編 ; 菊池 実編 柏書房 2003 (当館請求記号:||210.6||J87||)
- ③『京都の「戦争遺跡」をめぐる 府下200ヵ所』池田 一郎著/鈴木 哲也著 機関紙共同出版 1991 (当館請求記号:K0||369.37||Ka83||2)
- ④『黄檗 : 京都大学化学研究所広報』27号(https://www.kuicr.kyoto-u.ac.jp/dbooks/Obaku27/HTML/index20.html) (最終確認日:2021-06-02)
- ⑤「大阪砲兵工廠の創設」(『技術と文明』1巻1号抜刷)三宅 宏司著 思文閣出版 1984 (当館請求記号:Y||559.09||003395)
- キーワード
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- 戦争遺跡
- 宇治市--遺跡・遺物
- 火薬類--歴史
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000298229