レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2024年02月25日
- 登録日時
- 2024/03/01 10:12
- 更新日時
- 2024/03/16 21:22
- 管理番号
- 県立長野-23-181
- 質問
-
未解決
長野県立学校の名称は「長野県〇〇高等学校」などとなっている。県立なのに、なぜ「立」の文字がないの?
- 回答
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設置者が長野県である学校の名称は、長野県の条例「高等学校設置条例」「特別支援学校設置条例」等で定められており、「長野県○○高等学校」「長野県□□養護学校」と「立」の文字はない。
学校の名称に「立」がついた経緯は、明治34年4月の文部省令第十一号に遡る。
省令では、師範学校及び小学校を除く学校の名称に、費用負担の区別に従い都道府県立、私立等の文字を冠すことを義務づけているが、大正8年6月の文部省令第二十四号で廃止されている。学校名に設置区分(費用負担区分)の文字を冠すことが大正8年に廃止され、当時の長野県立学校は全て、大正9年に学校名称を変更している。
当時の状況については『長野県政史 第2巻』長野県編・刊【318.2/ナガ/2】長野県政の展開(大正)のうち、p.317-324「中等学校教育の拡充」の章に記述があった。
p.317大戦景気の大正七年から中学校が増加し、また十二年の郡制廃止による一部郡立学校の県立移管もあって県立校が急増している
p.319
中等学校の増加を背景に、九年長野県は学校の設立者別を明示する学校名称を廃止し、この時から長野県では、長野県長野中学校のように「立」の字が削除され、第二次大戦後の現在に至っている。
この時期、各郡の中等学校一校を県立とする「長野県学校網計画(新設または既設のものを県立移管)」を長野県が示したことで、各郡市の県立校選定に関連し、県会議員を中心に各地域で複雑な運動が起きたようだ。このような流れの中にも、学校名に「県立」と冠することを廃止した理由の一因があるかもしれない。
- 回答プロセス
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1 質問者が見たという記事を確認する。
元教育長談や、長野県教育委員会担当者談を交えた内容で、「県立」としていない理由は定かではないとまとめられていた。
2 そもそも、なぜ学校名称に設置者区分を冠しているのか調べることにし、NDC372教育史周辺の書架資料をあたる。
冠することとなった省令やそれが廃止されたことはわかった、理由は不明。
3 郷土資料分類 N370 教育の書架資料をあたる。
次の資料で、長野県立学校の名称に「立」がついた時と外れた時のことがわかる。
・『長野県教育史 第12巻』長野県教育史刊行会編・刊1977【N372/52/12】p.114
明治34年6月25日『長野県報』長野県告示第百八十一号「県立中学校・小県甲種養蚕学校の校名改称につき県告示」
・『長野県教育史 第14巻』長野県教育史刊行会編・刊1979【N372/52/14】p.9
大正9年4月23日『長野県報』長野県令第三十八号「県立中学校名称改正につき県令」
また、当時県立中学校だった次の学校誌の中でも名称変更の記述を確認できた。
・『長野県松本中学校・長野県松本深志高等学校九十年史』
有賀義人[ほか]著 長野県松本深志高等学校同窓会 1977【376.48/ナガ】p.359
・『長野県上田高等学校史 中学前編』
上田高等学校記念誌刊行会編 上田高等学校同窓会 1983【N376.4/59/2】p.304
- 事前調査事項
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『信濃毎日新聞』2021.4.20掲載記事 「県立高校なのに『県高校』なぜ?100年の歴史 意義深い理由
- NDC
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- 教育史.事情 (372)
- 日本 (291)
- 参考資料
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長野県政史 第2巻. 長野県, 1972.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001207142
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長野県政史 第2巻. 長野県, 1972.
- キーワード
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- 学校名
- 長野県
- 県立
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 学生
- 登録番号
- 1000346797