レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021年10月21日
- 登録日時
- 2023/06/21 15:12
- 更新日時
- 2023/09/23 14:17
- 管理番号
- 堺-2023-094
- 質問
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解決
「信長公記」に河内国の「新堀出城」という記載が出てくるが、現在の堺市北区新堀町に所在した城か。
この城について知りたい。
- 回答
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『堺市史続編』第1巻p505の「自治都市の終末」の項に、同じ『信長公記』を元に「天正三年四月、十万余騎の軍勢をもよおして遠里小野に陣した信長は、みずから指揮して近辺の作物を刈取り、新堀(いまの新堀町)に出城をかまえた十河因幡守・香西越後らを討ちとり、塙九郎左衛門(原田直政)をして河内国の諸城をことごとく破却せしめている(『信長公記』)。」との記述がある。
また、『信長公記』太田 牛一/著 KADOKAWA p201に「新堀」の注釈に、大阪府堺市とあり。
その他に『五箇荘の歴史』井澤正勝/著 p7に「新堀城(織田信長勢対三好一族・石山本願寺勢力連合軍の戦いの跡)」の項がある。
(北図書館)
- 回答プロセス
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『堺市史続編』第1巻p505の「自治都市の終末」の項に、同じ『信長公記』を元にした記述があった。
そこから、今の新堀町に城があったと推測された。
また、「信長公記」についての資料を調べたところ、『信長公記』太田 牛一/著 KADOKAWA 2019年 p201の「新堀」の注釈に、大阪府堺市との記述があった。
また、新堀町が五箇荘地区であることより、関連資料を確認してみると『五箇荘の歴史』井澤正勝/著 p7に新堀城の項があった。
しかし、その後さらに調査を進めたところ、『新修大阪市史』第2巻p.659には「翌天正三年四月初旬、信長は自ら兵を率いて高屋城の三好康長(笑岩)を攻め、近辺に放火した。
さらに信長は摂津に入って大坂を攻め、和泉に転戦して堺に近い新堀城(住吉区長居東)を攻略し、その守将十河因幡守・香西元成らを殺した。」とあり、『堺市史続編』と異なる記述があることも分かった。
- 事前調査事項
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『信長公記』(新人物往来社、1997年)p171の巻八、天正三年乙亥「河内国新堀城攻め干され並びに誉田城破却の事」の節に以下の記述。
「四月十六日、遠里小野へ、信長御陣取り。
近辺の耕作、信長御自身薙させられ、堺の近所に新堀と申す出城(イデシロ)拵へ、十河(ソガウ)因幡守、香西(カウサイ)越後、大将として楯籠る。」 このことから、今現在の新堀町にあった城かどうかの問合せ。
- NDC
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- 歴史.世界史.文化史 (20 8版)
- 参考資料
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太田牛一 [著] , 桑田忠親 校注 , 太田, 牛一, 1527-1613 , 桑田, 忠親, 1902-1987. 信長公記 新訂. 新人物往来社, 1997.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002589134-00 , ISBN 4404024932 (p.170-171) -
太田牛一 著 , 中川太古 訳 , 太田, 牛一, 1527-1613 , 中川, 太古, 1934-. 信長公記 : 地図と読む : 現代語訳. KADOKAWA, 2019.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I029957623-00 , ISBN 9784046042422 (p201) -
小葉田 淳/編集. 堺市史 2-1. 堺市役所, 1971.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I053516668-00 (p.505) -
五箇荘の歴史と文化財. 堺市五箇荘校区まちづくり協議会, 2020-11.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I100782938-00 (p.7) -
新修大阪市史編纂委員会 編 , 大阪市. 新修大阪市史 第2巻. 大阪市, 1988.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001953786-00 (p.659-660)
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太田牛一 [著] , 桑田忠親 校注 , 太田, 牛一, 1527-1613 , 桑田, 忠親, 1902-1987. 信長公記 新訂. 新人物往来社, 1997.
- キーワード
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- 新堀町
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000334803