レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020/07/29
- 登録日時
- 2020/10/28 00:30
- 更新日時
- 2020/10/28 00:30
- 管理番号
- 6001045169
- 質問
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解決
鶴満寺に梵鐘が寄進された経緯について知りたい。
- 回答
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次の資料に記述がある。
■『大阪史蹟辞典』(三善貞司/編 清文堂 1986.7)
p.120「鶴満寺」の項目に、「太平十年(一〇三〇 中国の年号)銘のある重要文化財の朝鮮鐘」について、次のようなことが書かれている。
別の銘から「永和五年(一三七九)頃日本に渡来して、長州の普済寺の鐘になったことが判る。」とし、「普済寺は後に廃寺となり、鐘は土中に埋没していたようであるが、元文年間(一七三六頃)萩の城主毛利大膳大夫が橋普請の際掘り出し、大坂へ運んで御用商人の上田広久に鑑定させた。ところが広久は本物の朝鮮鐘であることを知って欲しくてたまらず、巨万の富を積んで譲り受け、鶴満寺の鐘にしたと伝えられる。」
■『大阪府全志 巻之3』(井上正雄/著 大阪府全志発行所 1922)
p.421-422に鶴満寺に関する記述がある。
「鐘楼に吊せるは有名なる古梵鐘にして、もと長州普済寺のものたりしも、土中に埋れたりしが、毛利侯堤防経営の折掘出せしを、大坂の人上田宗右衛門なるもの毛利侯より讓受け、更に当寺に寄附せしものなりといふ。」(p.422)
■『大淀区史』(大阪都市協会/編集 大淀区コミュニティ協会 1988)
p.260-261に鶴満寺の項があり、次のように説明している。
「本堂の南にある鐘楼の銅鐘は、朝鮮鐘の代表的名鐘で重要文化財に指定されている。太平十年の銘があり、高麗時代(九一八-一三九二)初期に鋳造されて日本に渡来、山口県の普済禅寺の楼鐘となっていた。同寺荒廃後、長い間土中に埋まっていたのを毛利藩の堤防工事のとき発見され、藩主から譲り受けた上田宗右衛門が鶴満寺に寄進したという。」
■『大阪府史蹟名勝天然記念物 第5冊』(大阪府学務部/編 清文堂出版 1974)
※この資料は、昭和6年刊の復刻。
p.43-44に鶴満寺の項があり、次のような記述がある。
「古梵鐘あり鐘楼に懸く。もと長州普済寺の什具、一時土中に埋没したりしが、堤防修築の際に発掘せられしを、当山中興の本願上田廣久之を毛利侯より譲り受け寄附せしものなり。」(p.44)
■畑中稔/著「長柄かいわい その一 高麗時代初期朝鮮銅鐘のある鶴満寺」『市政研究』99号(大阪市政調査会 1993.4)p.[86]-87
「普済禅寺は現在宗隣寺(山口県在)と改名されて現存しているが、同寺が荒廃して鐘が土中に埋もれていたのを萩の城主毛利大膳大夫が領地の橋普請のときに土地の農民が掘り出したもので鑑定を出入の大阪商人であった上田宗右衛門に依頼した。ところが上田宗右衛門はこの鐘が欲しくてたまらず、毛利大膳大夫に懇願して譲り受けたという。」(p.[86])
[事例作成日:2020年7月29日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 寺院.僧職 (185 10版)
- 参考資料
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- 大阪史蹟辞典 三善/貞司∥編 清文堂 1986.7
- 大阪府全志 巻之3 井上/正雄∥著 大阪府全志発行所 1922
- 大淀区史 大阪都市協会∥編集 大淀区コミュニティ協会 1988
- 大阪府史蹟名勝天然記念物 第5冊 大阪府学務部∥編 清文堂出版 1974
- 市政研究 大阪市政調査会 大阪市政調査会 98-101
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 大阪
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000288712