レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010年05月20日
- 登録日時
- 2010/07/04 16:08
- 更新日時
- 2010/07/04 16:30
- 管理番号
- 福井県図-20100520-2
- 質問
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解決
① 明治4年に福井藩にあった、泉病院(蘆田源十郎屋敷)が当時の地図に著されているものがあるか。
② 懸所病院は何処にあったのか。
③ 福井藩病院の運営や実際の診療のあり方・診療者数などが掲載されている資料があるか。
- 回答
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①泉病院について
明治3、4年頃の地図は所蔵していない。
『福井城下絵図』(幕末期)に、城の南に「芦田信濃」の名前がある。
福井藩家臣関係資料によると「芦田信濃」は「芦田源十郎」の父にあたるので、おそらく「芦田源十郎」の屋敷も同所であると推測される。(この絵図は、『福井市史 資料編別巻 絵図・地図』に掲載されているが、図版のサイズが小さいためかなり見難い。)
なお、文化8(1811)年に作成された城下絵図『福井分間之図』にも同位置に「芦田」の名前がある。これらは、県立図書館ホームページ>デジタルアーカイブ http://www.library.pref.fukui.jp/kyoudo/degital_archives/top.html で詳細に見ることができる。
②懸所病院について
『福井県医学史』福井県医師会(1968年)によると、
「明治3年に福井藩は、西本願寺別院内に福井病院を開設し根拠病院とし、孝顕寺内、成覚寺内、鎮徳寺、芦田源十郎表屋敷内に支病院を設け、同年11月に泉病院(芦田病院)を根拠病院に、西別院内病院を支病院に変更した」とある。
また、『福井県医学史』と若干記述が異なるが、昭和47年4月29日から5月28日まで開催された「若越醫學史展」(福井市教育委員会主催)の『解説総目録』の中の「病院班次」の解説に、
「明治四年、福井藩の各病院「龍(孝顕寺内)、旭(鎮徳寺内)、松(成覚寺内)の各枝病院、
及び懸所(西別院内、根拠病院)」の医員名列である。笠原家文書所収。」
とあることから、「懸所病院」は西本願寺別院内に設けられたものではないかと思われる。
③福井藩病院の運営等の資料について
資料は不明。
- 回答プロセス
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1.『福井藩医年代順名列』より「福井藩各病院医員名列」「病院班次」という資料名がわかる。
2.「病院班次」で自館所蔵検索
→ 『福井県医学史』、『越前史料181』がヒット
『福井県医学史』p231「福井藩における医療の強制統合-病院班次・明治四年-」から、5つの病院名を確認。ほか『稿本福井市史』等の資料も確認。
3.明治の初めの地図に代わるものとして、『福井城下絵図』(幕末期)をあたるが、図版が小さく文字がはっきり読み取れないため、HPのデジタルアーカイブで拡大してみることのできる絵図のうち、一番年代が明治に近いものをあたる(『福井分間之図』文化8(1811)年)
→ 城の南に「芦田」の文字あり。
4.『福井城下絵図』(幕末期)で同じ位置をみると「芦田○○」と書かれているように見える。
5.歴史資料に詳しい職員より、「芦田クラスの家臣は、ほとんど動かない」 「『福井城下絵図』(幕末期)にある「芦田信濃」は「源十郎」の父である」というアドバイスもあり、泉病院の位置を推測。
6.懸所病院については、「若越醫學史展」の『解説総目録』の記述と、『福井県医学史』の記述などを総合して西別院内に設けたものと推測した。
- 事前調査事項
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『福井藩医年代順名列』 竹内真一/著 1964.1 竹内真一(当館請求記号:H490/T/2-1C 資料コード:1040304733) p14 を参考にした。
- NDC
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- 医学 (490 8版)
- 参考資料
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- 『福井市史 資料編別巻 絵図・地図』 福井市/編 1989.3 福井市 (当館請求記号:H221/H17/2-14B 資料コード:1040274936)
- 『福井県医学史』 福井県医師会/編 1968.6 福井県医師会 (当館請求記号:H490/H2/1A 資料コード:1040225359)
- 『若越医学史展 解説総目録』 福井市立郷土歴史博物館/編 1972.5 [出版者不明] (当館請求記号:H490/Z/1B 資料コード:1040018952)
- キーワード
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- 病院
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000068758