レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020/12/07
- 登録日時
- 2020/12/29 00:30
- 更新日時
- 2020/12/29 00:30
- 管理番号
- 6001046009
- 質問
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解決
「造幣局の桜の通り抜け」を始めたのは誰か。
- 回答
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次の資料に、当時の造幣局長である「遠藤謹助」が「通り抜けの生みの親である」との記述がある。
・『造幣局125年史』 (造幣局125年史編集委員会/編集 大蔵省造幣局 1997.3)
「第4章 総務部門等 第2節 広報 1 桜の通り抜け」(p.133-138)
「記念行事等」の「2.『通り抜けの由来碑』建立」の項に次の記述がある。
「平成2(1990)年4月10日、造幣局構内販売所前桜樹植込み内において、「通り抜けの由来碑」の除幕式が行われた。(中略)除幕式は、通り抜けの生みの親である遠藤謹助元局長の遺族の方々、西独ハンブルグ市第16代桜の女王ユッター・ショット氏を招いて行われた。」(p.134)
また、遠藤謹助が「桜の通り抜け」を始めたとの記述は、次の資料でも確認できる。
・『五代友厚 明治産業維新を始めた志士 鹿児島人物叢書』(桑畑正樹/著 高城書房 2016.4)
第11章「ミニコラム 大阪造幣寮(造幣局)」(p.116-118)に、次の記述がある。
造幣局の「運営開始の明治三年から亡くなるまでのおよそ二十年間も務めた遠藤謹助。(中略)遠藤は、のち明治十四年(1881年)には造幣局長となった。現在も続く、大阪造幣局の「桜の通り抜け」は当時(明治十六年)、局長だった遠藤が「役人ばかりが花見をしていてはもったいない。大阪の人々にもたくさん見て楽しんでもらおう」と始めた、と伝えられている。」(p.117)
・本渡章著「遊宴二百年、桜宮物語-桜宮と通り抜け-」『大阪人』57(4) (大阪都市協会 2003.4)p.22-24
「浪花の歳時記 造幣局の通り抜け」の項に、「明治十六年(一八八三)、当時の造幣局長、遠藤謹助の「局員だけの花見ではもったいない、市民とともに楽しもうではないか」のひと声で、花盛りの数日間、桜の並木道が一般に解放されることになった。」とある(p.24)。
[事例作成日:2020年12月7日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 被子植物 (479 10版)
- 貨幣.通貨 (337 10版)
- 参考資料
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- 造幣局125年史 造幣局125年史編集委員会∥編集 大蔵省造幣局 1997.3 (134)
- 五代友厚 桑畑/正樹‖著 高城書房 2016.4 (117)
- 大阪人 大阪市都市工学情報センター 57(1-6)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 大阪,人物・団体
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000291786