レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018年08月28日
- 登録日時
- 2020/03/11 17:03
- 更新日時
- 2020/03/11 17:41
- 管理番号
- 横浜市中央2578
- 質問
-
解決
幕末明治初期の歌人「弁玉」の歌碑について、
碑文の内容と、建立の経緯を知りたい。
- 回答
-
1 お調べした内容
(1)歌碑の場所について
現在歌碑があるのは、明治期に高島嘉右衛門の邸宅があった
大綱山に作られた高島山公園(横浜市神奈川区高島台5-2)です。
嘉永3(1850)年に三宝寺(横浜市神奈川区台町7-1)の住職
となった弁玉(1818-1880)の歌碑がここに建てられた時期や経緯
などについて、記載のある資料をお調べしました。
なお、建碑のいきさつについて記述のある資料を要約すると、
歌碑はおおむね以下のような変遷をたどって現在地に建てられた
ようです。
明治16(1883)年:望欣台(高島家別邸
現在の神奈川区高島台)に建碑
大正5(1916)年:千歳園(弁玉の弟子岡野良哉の別邸
現在の西区岡野町)に移設
昭和初期 :常盤園(岡野良哉の子欣之助が作った
岡野家庭園現在の保土ケ谷区常盤台)に移設
昭和26(1951)年:常盤園が老人施設恵風寮に転用
昭和41(1966)年:高島山公園(神奈川区高島台)に移設
(2)歌碑に刻まれていること
歌碑には両面に文字が刻されています。片面は「弁玉師倭歌碑」
の題字と弁玉の略歴や人柄を記した「弁玉師墓碣誌幷銘」が
漢文で刻まれ、この歌碑が明治16(1883)年3月に建碑で、
枕山大沼厚という人物が撰文書写したことが明記されています。
もう一方の面には弁玉の歌集『由良牟呂集』に所収の長歌
「世人醸禍者恒聞争言為端因作歌」が、自筆の変体がなを写して
刻まれています。
両面の碑文の読み方、意味について記載のある資料を
お調べしました。
2 歌碑の所在、碑文の読みについて記述のあった資料
(1)『碑はつぶやく 横浜の文学碑』
石井光太郎/編 横浜市教育委員会文化財課 1990.3
p.33~35「大熊弁玉歌碑」
横浜市域にある文学碑について、所在地・写真・釈文・
解説・参考文献をまとめた資料です。「大熊弁玉歌碑」の
項目には、歌は翻刻のみですが墓誌銘は書き下し文が
掲載されています。
(2)『神奈川区誌 区制五十周年記念』
神奈川区誌編さん刊行実行委員会/編集
神奈川区誌編さん刊行実行委員会 1977.10
p.562~567「歌僧弁玉」
歌碑の両面の拓本写真が掲載されており、歌は翻刻
されています。墓誌銘をもとにした弁玉の略歴のほか、
歌碑の移転について詳しい記述があります。
(3)「文明開化を生きた歌人・大熊弁玉…
神奈川に弁玉といはれし僧ありて」 増田恒男/著
『大倉山論集 第61輯』 大倉精神文化研究所 2015.3
p.93~178
墓誌銘の書き下し、歌の翻刻と大意が掲載されています。
また、歌碑の変遷について詳しく記述されていて、
常盤園にあった歌碑の写真なども載っています。
(4)『大熊弁玉 横浜の文化 №11』
「大熊弁玉」編集委員会/編 横浜市教育委員会
1983.10
p.77~80「大熊弁玉と私」 近藤東/著
昭和39(1964)年に老人施設・恵風園の裏庭で歌碑を
発見した著者が、当時の飛鳥田一雄横浜市長に送った
歌碑移設の陳情の公開状が全文掲載されています。
p.97~100「弁玉歌碑移転のことなど」 野村良政/著
歌人でもあり当時横浜市計画局計画部長でもあった著者が、
飛鳥田市長からの直接の依頼により歌碑移設に携わった
経緯が記されています。
p.123~153「歌僧弁玉とその周辺」石井光太郎/著
墓誌銘の書き下しと歌の翻刻のほか、弁玉の略年譜と
著作目録、参考文献が掲載されています。また、『横浜市史稿』
や各種の人名辞典にある弁玉の略歴がこの墓誌銘を引用している
こと、実際の略歴とは食い違いがあることが指摘されています。
(5)『横浜の文化財 第3集 横浜市指定・登録文化財編』
横浜市教育委員会社会教育部文化財課 [1993]
p.44~46「地域史跡 弁玉歌碑」
墓誌銘と歌の翻刻が掲載されています。
(6)『横浜の教育と文化 1』 大倉精神文化研究所/編
大倉精神文化研究所 2003.3
p.119~146「歌僧弁玉と開港地横浜の歌」塩野崎宏/著
歌碑の移転についての記述があります。
(7)『蟹が行くヨコハマ 文明開化の歌人和尚・大熊弁玉』
横浜文芸懇話会 2005.4
p.102~103「由良牟呂集と弁玉歌碑」
歌碑に関する記述の中に、碑題「弁玉師倭歌碑」の文字を
刻した「水石居士」に関する情報があります。
なお、この本は弁玉の歌を現代語で意訳したもので、
「世人醸禍者恒聞争言為端因作歌」p.33に意訳、p.80に翻刻が
掲載されています。
(8)『窪田空穂全集 第10巻 古典文学論』 窪田空穂/著 角川書店
1966
p.442~455「弁玉の長歌集を読みて」
弁玉の長歌を読み解く評論ですが、冒頭に墓誌銘の内容を
枕山と弁玉の関係としてとらえた解釈があります。
(9)新聞記事(神奈川新聞)
ア 昭和41(1966)年2月21日 p.8 「弁玉の歌碑 ゆかりの高島山公園に」
歌碑が2月19日の夜に横浜市によって移設されたこと、詩人の
近藤東氏が昭和39(1964)年の横浜市民文学散歩の際に偶然恵風寮で
歌碑を発見したこと、市長に直接陳情したこと、など移転の経緯が
簡潔にまとまっています。
イ 平成9(1997)年5月31日 p.10 「弁玉の歌碑の長歌」
歌人の熊沢正一氏による歌の解説が記事になっています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 詩歌 (911 8版)
- 関東地方 (213 8版)
- 日本 (291 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000275793