レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018年05月30日
- 登録日時
- 2018/11/15 18:30
- 更新日時
- 2019/02/27 16:32
- 管理番号
- 埼久-2018-060
- 質問
-
解決
「オ・ソレ・ミオ」の曲の歴史や成り立ちについて知りたい。
- 回答
-
下記の資料を紹介した。
1 図書
『標準音楽辞典 ア-テ』(音楽之友社 2008)
p280 「オ・ソレ・ミオ O sole mio〔伊〕」
「ディ・カープア作詞・作曲の歌曲。ナポリの民謡際から広まった。恋人を太陽にたとえてたたえた歌」とあり。
p1154「ディ・カープア,エドゥワルド」
「イタリアのナポリターナ作曲家。(中略)「オ・ソレ・ミオ(私の太陽)」(1898)(中略)など多くのナポリターナを作曲(中略)彼の最大傑作であるだけでなくナポリターナの代名詞となっている「オ・ソレ・ミオ」は父とともにロシアのオデッサに滞在中に作曲したといわれ、帰国後、ナポリのコンテスト「タヴォラ・ロトンダ Tavola Rotonda」に出品。第2位になったが優勝曲「ナポリは美しい!」を凌ぐ大ヒットとなった」とあり。
『世界の民謡めぐり』(江波戸昭著 日本書籍 1992)
p94-95 「オー・ソレ・ミオ」
「15世紀の中旬から、ナポリの守護神ピエ・ディグロッタの聖母像への舟乗りたちの感謝祭に便乗して、職業的な歌手たちのコンテストが行われるようになったのが、“ナポリ民謡”の始まりだった。(中略)そして毎年、その祭りの晩に聴衆にもっとも喜ばれた曲がその年の流行歌となり、そのうちいくつかが時の流れをのりこえて、民謡化していった。(中略)「オー・ソレ・ミオ」O sole mio そのものについては、ナポレターナの、そしてイタリア民謡の代表的傑作として、今さらいうこともあるまい。作曲のエドゥアルド・ディ・カプア(1865~1917)はロシアへの旅の途中にこれを作ったという。帰国してその年のピエ・ディ・グロッタ音楽祭〈タヴォア・ロトンダ〉に出品したのだが、その場ではなんと第2席だった。」とあり。
2 CDの解説書
『カンツォーネの歴史 1-5』(ガブリエラ・フェッリ[ほか]歌 キングレコード 1992)の解説書
p19「オ・ソレ・ミオ(1898年)」
「ナポリターナの代名詞のように世界に知られる傑作。作曲したエドゥワルド・ディ・カプア(1865-1917)は父とともにロシア旅行の途次のオデッサ滞在中に作曲したといわれ、帰国後に当時のピエティグロッタの音楽祭だった「タヴォア・ロトンダ(円卓の意味)」に出品、「美しいナポリ」に次いで第2席となり、賞金200万リラを獲得した。題の意味は「私の太陽」。」とあり。
- 回答プロセス
-
1 音楽関係の参考図書を確認する。
『標準音楽辞典 ア-テ』(回答資料)
『標準音楽辞典 ト-ワ,索引』(音楽之友社 2008)
p1287「ナポリターナ」の項あり。
『新編音楽中辞典』(海老澤敏[ほか]監修 音楽之友社 2002)
p104「オ・ソレ・ミオ」
p425「ディ・カープア,エドゥアルド」
『声楽曲鑑賞辞典』(中河原理編 東京堂出版 1993)
p456「オ・ソレ・ミオ」の項あり。
2 自館目録を〈オ・ソレ・ミオ〉で検索する。
『カンツォーネの歴史 1-5』(回答資料)CDの解説書
3 自館目録を〈カンツォーネ〉で検索する。
『カンツォーネ・アルバム 2』(水星社)
p117「私の太陽よ」の項に解説あり。
p88-90に譜面あり。
『世界の名曲とレコード シャンソン・カンツォーネ編』(永田文夫著 誠文堂新光社 1967)
p219「オー・ソレ・ミオ」の項に簡単な解説と、歌詞の邦訳あり。
4 自館目録を〈世界 & 民謡〉で検索する。
『世界大音楽全集 〔2〕声楽篇27 世界民謡集』(堀内敬三等編 音楽之友 1956)
p105-107「O Sole Mio 私の太陽」譜面と歌詞あり。
p207 簡単な解説と訳詞あり。
『世界の民謡めぐり』(回答資料)
- 事前調査事項
- NDC
-
- 音楽 (760 9版)
- 声楽 (767 9版)
- 参考資料
-
- 『標準音楽辞典 ア-テ』(音楽之友社 2008) , ISBN 978-4-27600007-0 (978-4-09-388527-0)
- 『世界の民謡めぐり』(江波戸昭著 日本書籍 1992) , ISBN 4-8199-0356-X
- キーワード
-
- 音楽-イタリア
- 民謡-イタリア
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000245896