①『雅楽を知る事典』
p.261のコラム「祈?の千返楽」に「神社で奏される雅楽の一形態に、楽曲を繰り返し奏する千返楽による祈?法があった。これは千首和歌法楽や千句連歌法楽の影響を受けて、天文十一年(一五四二)に後柏原天皇の御心願による伊勢神宮への法楽として始められたものといわれ、十六世紀後半に盛んに行われた。祈?の趣意は、病気平癒の場合がもっとも多く、次いで時節を反映して織田信長、豊臣秀吉らへの戦捷祈願が多く行なわれたようである。」
「曲目は、一名《礼儀楽》とも呼ばれ、仁義礼智信の五常を現した曲として尊ばれた《五常楽急》が主に選ばれた。千返といっても、本当に千返繰り返すのではなく、(中略)参仕者数と掛け合わせて計算したようである。すなわち十人の奏者が百返奏した場合、一〇×一〇〇で千返という計算になる。」と書かれている。
②「千返楽祈?について-十六世紀宮廷における法楽御会の一様相-」
(『國學院雑誌94(12)』p.34-54)
千返楽についてp.34に「室町時代の宮廷では特定の社寺に対して、和歌や連歌を手向ける法楽御会が盛んに催されたが、雅楽の合奏も法楽の楽御会として度々催されていた。十六世紀半ばには、この法楽御会のなかで祈祷のために一曲を百回、千回と数を重ねて演奏する「千返楽」が行われるようになった。(中略)その後ほとんど行われなくなるものの江戸時代後期まで内侍所への御法楽として続けられたものである。」「この「千返楽」には、当時行われていた数祓の影響が伺われるが、雅楽曲が中臣祓や真言、陀羅尼などと同様に数を重ねて奏することで、より力強く神仏に働き掛けることが出来ると信じられていたことにより始められたものであろう。」とある。また、「千返楽祈?の成立」や「法楽楽御会所作人、演奏曲一覧」、「千返楽一覧」についても掲載されている。
③『国史辞典 第2巻』
p.490「かしこどころせんべんがく 賢所千反樂」という項目に「賢所に於て五常樂を千返繰返して吹くこと。」とある。また、「(中略)均光卿記にも寛政六年七月、同七年十一月病氣平癒のために千反樂を奏すと見える。」とも書かれている。
④『楽家類聚』
p.99「二、祈祷祈願のこと」に「安政五年(一八五八)のコレラの大流行は、手元の年表にも「ころり(コレラ)流行、死者三万」とあり、大変なことであったことがわかる。」「当時、南都楽所がこの大流行のために氷室社で、疫病退散の祈祷を行なったことが記録されている。」とある。抜粋箇所には「安政五年 九月大 二日 戌 晴天 (中略)この悪病大流行について、昨日一同で相談して次のように決定した。氷室社において仲ヶ間安全、氏子町安全のための悪病退散祈祷を、明三日から五日まで三か日間、中臣祓千座、連夜千燈明を行うことになり、今早朝から氷室社へ神札をこしらえに参加した。」と記されている。
そして三か日の祈祷が終わった後、「九月上旬に行った氏子安全の祈祷が、十月五日に願掛けの満願となるので、氷室社で「結願の千反楽」が行われている。」とあり、千反楽の次第に「五常楽急千反」という文字が見える。
⑤『大日本神祇史』
p.932に「文祿四年十二月、秀吉の病を祈らむがために御神樂を行はしめ給ひしが如き是なり、(中略)又千反樂と稱し、五常樂を千反繰返して吹奏することあり、亦之を内侍所御法樂とも云ふ、」とある。