①『最新日本ツバキ図鑑』に「江戸時代の初め、元和・寛永(1615~44)のころ、日本では空前のツバキ・ブームが到来した。後水尾天皇や二代将軍秀忠がその愛好の先頭に立ち、花園を設けるほどであったので、全国から競って珍花や名花が献上された。」とある。
②『最新椿百科』には「江戸時代には、少なくとも2度のツバキブームが起きている。1度目は寛永年間(1624~44)を中心としたブーム、2度目は文化・文政年間(1804~30)のブームである。」とある。
「1度目のブームは、京都、江戸を問わず貴人から市井の好事家まで、その階層は幅ひろい。」として、京都でのツバキブームの様子を当時の資料とともに紹介している。また「江戸では、徳川将軍は家康から家光にわたってツバキ好きで、ことに2代将軍秀忠(1579~1632)は格別にツバキを愛好した人物として伝えられている。」ともある。このブームを背景にツバキを描いた図譜も登場しており、栽培されていたツバキの品種を知ることのできる資料の紹介もある。
「江戸時代後期の文化・文政年間のころには、2度目のブームが起きている。この度のブームでは旗本から町衆まで、珍奇なツバキを競うようになった。当時注目された斑入り葉、変わり葉などは、1度目の流行にはでてこなかったものだ。」と記されている。
③『椿』では「第4章 近世初期に大流行した椿」の章でブームについて詳しく紹介している。また、ブームを3回としており、「徳川二代将軍秀忠をトップとした大名などの階級に流行した第一期は元和~寛永(一六一五~一六四四年)年間、第二期は『花壇地錦抄』の刊行にみられる武士や富豪階級に流行した寛文~享保(一六六一~一七三六年)年間、第三期は珍しい斑入葉椿の栽培を中心とした享和~文政(一八〇一~一八三〇年)年間である。」とある。ただし「椿が流行したとはいえ、ある程度以上の階級層のなかでも好事家とよばれる人たちの間のことであった。園芸植物のなかでは、誰でもどこでも栽培できる菊、朝顔、万年青などの鉢ものの広がりと人気には、とうてい比較にならないものであった。」ともある。
④『西山松之助著作集 第8巻 花と日本文化』でも「日本に椿ブームが現出したのは、戦国の動乱が終わりを告げ、平和時代が到来した元和・寛永ごろがまずはじめで、このブームは後水尾院を中心とする京都の公家文化社会を軸として展開した。やがてこのブームは江戸にも波及し、二代将軍の椿愛好が大きな発動力となって、江戸の椿ブームを現出し、それが元禄期に広く一般社会にまで発展していく。そうしてしばらく停滞するが、化政期にふたたび盛行して珍花名種が多数開発され、肥後椿のような地方の美花が創出されるに至った。」とある。「(前略)日本の元禄ごろの第二期椿ブームが広く豊かに一般社会にまで広がっていったころ、(後略)」、「第二の元禄も、第三の化政ブームも、豊かな文運発展の平和時代であった。」とあることから、ブームを3回とみていることが分かる。