レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2007/07/29
- 登録日時
- 2007/12/01 02:11
- 更新日時
- 2009/11/20 11:50
- 管理番号
- 埼浦-2007-081
- 質問
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解決
「奥州古道」または「奥州廃道」について記述のある資料、埼玉県内のルートがわかる資料を探している。
- 回答
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岩井茂「奥州への中ツ道と御廐瀬の渡・河関のことに就いて」(『埼玉史談 第47巻第1号』)
岩井茂「古代・中世初頭の奥州路について」(『埼玉史談 第53巻第3号』)
『富士見市史 通史編 上』p396「図28 中世における市と街道」
『狭山市史 通史編 1』p174-182「第五節 古代の生産と入間道」
『所沢市史 上』p278-285「古代の交通路」の項
『鎌倉街道上道 (歴史の道調査報告書 第1集)』
などの記述のあった資料を提供する。
- 回答プロセス
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『新編埼玉県史 通史編2 中世』 p945-957「鎌倉街道の概観」の項
p946に「また中道については、奥州への主要幹線道路ということで、『吾妻鏡』では「奥大道」とも呼んでいる。鎌倉街道の成立を歴史的にたどると、最初は古代のころ「国府への道」として開設されたものと思う。」という記述あり。
『埼玉県の地名』(平凡社 1993)p58「鎌倉街道-中道」の項
「中道は鎌倉から武蔵・下野などを通り奥州に至る幹線で、奥州道・奥大道ともよばれ…」の記述あり。
以上資料の記述から、鎌倉街道を奥州古道・廃道としてよければ、回答プロセスにあげる資料がある。
岩井茂「奥州への中ツ道と御廐瀬の渡・河関のことに就いて」(『埼玉史談 第47巻第1号』p1-15)で「上古の中ツ道は、武蔵国府(府中市)の国衙より、上ツ道を通り所沢市で上ツ道と分かれて右に折れ・・・」という記述あり。
岩井茂「古代・中世初頭の奥州路について」(『埼玉史談 第53巻第3号』p23-24)「古代の官道は・・・、準官道として、後の鎌倉街道中ツ道の前身の奥州路が所在していた。」の記述とルートあり。
『埼玉新聞記事検索』を〈奥州古道〉で検索した結果、該当記事が1件あり。
「北川辺地名考(3) 向古河(1) かつては奥州古道が渡良瀬川の渡し場から日光道へ」『埼玉新聞 1990年6月2日』 13面に次のような記述あり。
「ここにはもと奥州古道があって、上州から当地に通じていたが・・・」(この記事は『新編武蔵風土記稿 [第4期] 第10巻』 向古河の項に拠る)
回答時追加資料
『富士見市史 通史編 上』p396「図28 中世における市と街道」に鎌倉街道のルートあり。
『狭山市史 通史編 1』p174-182「第五節 古代の生産と入間道」
p181「古代から「入間道」なるものがあったことが知られている。(略)・・・入間郡内を通る道が「入間道」であったのであろう。この道はさらに上野国(群馬県)や奥州に向かって延びており、中世の鎌倉街道上道もこの道筋にしたがってつくられたと考えられている。」との記述あり。
『所沢市史 上』p278-285「古代の交通路」の項
『鎌倉街道上道 (歴史の道調査報告書 第1集)』(埼玉県教育委員会 1983)
記述なしの資料
『旧鎌倉街道・探索の旅 中道編』(芳賀善次郎 さきたま出版会 1981)『鎌倉街道中道』(内田真弘 内田真弘 1985)『鎌倉街道 1 歴史編』(栗原仲道 有峰書店新社 1976)『中世の道・鎌倉街道の探索』(北倉庄一 テレコム・トリビューン社 2000)
その他、各種検索システムによる検索結果
《自館目録》《NDL-OPAC》《ゆにかねっと》を〈奥州古道 or 奥州廃道〉で検索したところ該当なし。
- 事前調査事項
- NDC
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- 交通史.事情 (682 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 関東地方 (213 9版)
- 参考資料
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- 『埼玉史談 第47巻第1号』
- 『埼玉史談 第53巻第3号』
- 『埼玉新聞 1990年6月2日』
- 『富士見市史 通史編 上巻』
- 『狭山市史 通史編 1』
- 『所沢市史 上』
- 『鎌倉街道上道 (歴史の道調査報告書 第1集)』(埼玉県教育委員会 1983)
- キーワード
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- 埼玉県-交通-歴史
- 鎌倉街道
- 奥州古道
- 奥州廃道
- 郷土資料
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 定番事例-参考資料-埼玉新聞-解決
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000039867