レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年07月19日
- 登録日時
- 2011/11/29 08:47
- 更新日時
- 2012/05/31 17:56
- 管理番号
- 埼浦-2011-118
- 質問
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解決
児玉町の連雀町という地名に関する資料が見たい。
- 回答
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1 連雀町全般について書かれた資料を紹介した。
『国史大辞典 14』
p744 「れんじゃく 連索」 及び 「れんじゃくしょうにん 連雀商人」の項に、れんじゃくについて説明あり。
また、「戦国時代に入ると、行商を営業形態としていた連雀商人は、後北条氏の川越・岩槻・鉢形・松山本郷のように、戦国大名が各地に経営した城下町の特定地区に集住するようになり、そこを連雀町・連雀小路と称するようになった。」との記述あり。
『埼玉苗字辞典 4(ハ〜ワ)』
p8371 「連雀」
「商品を持ち歩いて定期市で商いをすることを云う。(中略)川越町連雀町、児玉町連雀あり。」とあり。
『埼玉県地名誌 名義の研究』
「大里郡 鉢形村」
p390 連雀小路(れんじゃくこうじ)
「連雀町、連雀小路という地名は、ほうぼうの城下町にみられる。ここも鉢形城下にみられる地名であるが、これは行商人たちの居住した町の意である。レンジャクは連尺、連索、連着が正字とされ、かれらが物を背負うて運ぶ道具をいう。」とあり。
『国史大辞典 14』(上掲資料)の参考文献より。
『中世日本商業史の研究』
p311 新編武蔵風土記稿等の調査による市場の設立についての表及び図が掲載されている。
p312 表及び地図に児玉宿の市場名が含まれているが、児玉町の連雀町への言及はなかった。
『中世商人の世界 市をめぐる伝説と実像 歴博フォーラム』
連雀を鍵に中世の市と商人についての発表をまとめたもの。
その内、石井進「商人と市をめぐる伝説と実像」(p3-18)には連雀商人と中世の市について概略が述べられている。
p13には、地名に残る連雀として、連雀町の分布が彦根より東にしかみられない、東海・関東地方の古い城下町に多いと紹介し、具体的な地名として「江戸・前橋・鉢形・交付・静岡・掛川・岡崎・浜松・彦根」(小野均氏)、「高崎・箕輪・岩槻・松山・川越などの城下町」(伊東氏)が列挙されている。
また文中には『国史大辞典』の参考文献でもある、伊東弥之助「連雀町・連雀座・連雀商人」(『三田学会雑誌』39(6)連雀」)からの一部要約と紹介がある。
2 児玉町連雀町について書かれた資料を紹介した。
『新編武蔵風土記稿 [第4期]12』文化7~文政11年の復刻。
p12 「児玉町」
小名 本児玉 児玉上町 下町 連雀町 新田 新宿 とあり。児玉町及び八幡山町の町図が掲載されているが、町図に連雀の記載はない。
『武蔵国郡村誌 8 武蔵国児玉郡村誌 武蔵国賀美郡村誌 武蔵国那珂郡村誌』明治8~9年刊の復刻
p123 児玉町の字地として 上町 仲町 新町 養福寿 学校 連雀町 町後南 本町 柳原 南原の記載あり。
「連雀町 学校の東北に連る東西一町三五間南北一町四〇間」
3 県内の連雀町関連資料として、川越市関連資料から一部を紹介した。
『川越市史 2-1』
「第6節 北条氏時代の河越城と城下町 大道寺氏河越町統制」
p592-593 「北条氏が滅びた後、関東八州を秀吉より分配された家康は、河越城には家臣酒井重忠を入れ、この酒井氏が近世における川越藩のはじめとなったわけであるが、重忠は入城の後、次原氏の要請を許し、連著町新宿の起立をみとめている。」(中略 天正19年の文書(『新編武蔵風土記稿 8』p230に記載あり)が掲載されている))次原氏は連著商人の頭であって、古来の連著商人が本町のほかに、新町を起立することを許可されたのである。連著は連雀とも書く。」(中略)「転じて、この道具で商品を運搬し販売する商人を一般に連雀(著)衆と呼び、それらが住する場所が連雀町である。したがって連雀町は往来の最も頻繁な商人町をさすわけであって、河越には中世以来近世早期にかけてこの現象が顕著であったことがわかる。」河越の楽市がいつ頃から始まったかは明らかではないが、「高麗郡高荻村(天正11年)、新座郡白子郷(同15年)、比企郡井草宿(同15年)、入間郡坂戸村(同18年)、足立郡浦和宿(同年)、埼玉県岩槻(永禄3年)等の各地においてみられた事と合わせて」(中略)「次原氏ら河越城下の旧い連雀衆の頭だった人びとはいずれもこの楽市と深い関係を持ち、いわば河越経済圏を牛耳った人たちであったと見てよい」とあり。
『南田島自治会保管文書目録連雀町自治会保管文書目録』
p33 「連雀町自治会保管文書解説」
「連雀町の町名は江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』には見られない。しかし、『武蔵郡村誌』(明治9年調査)では松郷の字地のひとつとして「連雀町 六軒町・・・」と記されている。(中略)また明治20年の『川越地誌』では、松里村誌の項に「連雀町ハ蓮聲寺門前及び鉦打町ヲ合セ明治4年連雀町ト称ス」とあり、「連雀町」は明治初期からの呼称であることがわかる。」 とあり。
- 回答プロセス
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その他の調査済み資料
『児玉町史 民俗編』(児玉町 1995)
連雀町の由来について触れた記述は確認できなかった。
p416 「第2節 交易 1 市」
六斎市の変遷、児玉の市について触れられている。
p419 「児玉の市は、高札場のあった連雀町付近を中心に市場が設けられていたようで、町場として当時は児玉市場の方が八幡山市場より大規模であった可能性が高い。近代以降も引き続き市場は開かれたが次第に衰微し、十二月十日に開かれる十日の市はその名残である。」とあり。
『児玉町史 近世資料編』(児玉町教育委員会編 児玉町 1990)
p487 商業・金融関係の文書の解説として、児玉の市の概略あり。
『鎌倉街道上道(歴史の道調査報告書 1)』 (埼玉県立歴史資料館編 埼玉県教育委員会 1983)
p113-115 「鎌倉街道の性格と機能 福島正義 (4)伝馬の道」
後北条氏が分国内にある各支城と本城とを結ぶ軍事道路の建設に努力し、従来の鎌倉街道を整備して、分国内の軍事体制を確立するとともに、商品の生産流通を企図したことを述べ、宿場整備の一つとして児玉の名をあげている。また、宿場での市についても、後北条氏が商人の保護政策をとり、鎌倉街道沿いに市場の地名が多く残されているとあるが、連雀町についての記述なし。
- 事前調査事項
- NDC
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- 関東地方 (213 9版)
- 商業史.事情 (672 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
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『国史大辞典 14』(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1993)
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『埼玉苗字辞典 4(ハ〜ワ)』(茂木和平著 茂木和平 2008)
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『埼玉県地名誌 名義の研究』(韮塚一三郎著 北辰図書 1977)
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『中世日本商業史の研究』(豊田武著 岩波書店 1952)
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『中世商人の世界 市をめぐる伝説と実像 歴博フォーラム』(国立歴史民俗博物館編 日本エディタースクール出版部 1998)
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『新編武蔵風土記稿 [第4期]12』(蘆田伊人編集校訂 雄山閣 1996)
- 『武蔵国郡村誌 8 武蔵国児玉郡村誌 武蔵国賀美郡村誌 武蔵国那珂郡村誌』 (埼玉県編 埼玉県立図書館 1954)
- 『川越市史 2〔1〕』(川越市庶務課市史編纂室編 川越市 1985)
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『南田島自治会保管文書目録連雀町自治会保管文書目録』(川越市立博物館 2003)
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『国史大辞典 14』(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1993)
- キーワード
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- 歴史-本庄市
- 歴史-児玉町
- 連雀町
- 商人
- 埼玉県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000097237