レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014年3月25日
- 登録日時
- 2016/03/29 18:44
- 更新日時
- 2016/04/26 16:36
- 管理番号
- 県立長野-15-031
- 質問
-
解決
中央線建設に貢献があった長野県の以下の人物について、生没年、職業等を知りたい。
・鈴木茂七郎(松本市 甲信鉄道に関係したらしい)
・中村弥七(松本市 衆議院議員だったらしい)
・今村清之助(伊那市 銀行経営者だったらしい)
・上柳喜左衛門(飯田市 酒造業だったらしい)
・手塚光雄(木曽町 日義村長だったらしい)
・松岡治三郎(木曽町 福島町長だったらしい)
- 回答
-
1 鈴木茂七郎
生年:文政12年(1829年)正月28日
没年:明治31年(1898年)5月30日
多くの資料に名前が見えるが、生没年は下記【参考資料1】に拠る。
同資料によると、明治14年1月に行われた松本商法会議所(松本商工会議所の前身)の定例会で理事として選出されている。
また、「会議所創立期10人の人々」の一人としてp102-104には鈴木に関する項目が作られている。
ここでは、筑摩県の博覧会事業に深くかかわっていたこと、明治10年に創立された第十四国立銀行に関して、発起人、株主、役員となっていること、明治13年11月の大蔵卿にあてた増資願書に取締役兼支配人として筆頭に記されていることなどが記載されている。
また、明治22年4月に南北深志町の合併により松本町としての自治制施行時にはじめて開催された町会では年長により仮議長を務めている。
2 中村弥六
生年:安政元年(1852年)12月8日
没年:昭和4年(1929年)7月7日
下記【参考資料2】や【参考資料3】のp526「中村弥六」の項などがある。
後者では「政治家、東洋民族統一の唱導者」とあり、高遠藩校進徳館師範中村元起の四男として生まれ、17歳で上京後開成学校で学んだこと、内務省入省後森林行政研究のためドイツに留学したこと、帰国後農商省書記官となり森林教育林政に力を注いだこと、第1回国会開設に当たり国政に入り、衆議院議員当選10回、治山治水、林政に力を尽くしたことなどが記載されている。
インターネットでも、国立国会図書館の「近代日本人の肖像」などで経歴を見ることができる。
(http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/447.html?cat=19)
3 今村清之助
生年:嘉永2年(1849年)3月3日
没年:明治35年(1902年)9月26日
下記【参考資料3】のp85「今村清之助」の項、【参考資料4】などがある。後者は国立国会図書館近代デジタルライブラリー(回答当時。現在は国立国会図書館デジタルコレクション)で閲覧可能。
(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952123 『信濃之人』205コマ。)
前者では、伊那郡出原村(現高森町)出身の実業家とあり、渋沢永一らと株式取引所の設立に参画したこと、三井家の後援を得て横浜居留地の西洋銀行の買い占め競争をして商業界に知られたこと、両毛、九州、関西など各鉄道の発起人や重役となったこと、(18)88年今村銀行を設立して実業界に重きをなしたこと、などが記載されている。
4 上柳喜右衛門
資料により異同が見られる。
生年:嘉永2年(1849年)9月11日
没年:大正12年(1923年)9月2日
【参考資料3】のp100に「上柳喜右衛門」の項がある。この資料では『飯田町小史』を参考 資料として、嘉永5年に10代目喜右衛門の二男として生まれ、益太郎久嗣を名乗っていたが、後に喜右衛門を襲名したことや、家は酒造業を営んでおり、兄久休(11代喜右衛門)夫婦とともに家業に従事しながら、若いころから町政に参与したことなどが記載されているが、他の多くの資料では生年が嘉永2年となっている。『飯田町小史』を所蔵する飯田市立中央図書館に問いあわせたが、「町史に関する項目中に上柳の名は見られるが、上柳について項目があるのではなく、生年月日の記載もない」とのこと。
そのほかに【参考資料5】下伊那郡の部のp53-54、【参考資料6】p4、【参考資料7】p70、【参考資料8】p466などに上柳に関する記載がある。
(資料5:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779920 248-249コマ)
(資料6:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764848 12コマ)
主な経歴に、明治32年から2期の飯田町長、第百十七国立銀行頭取(時期不明)、飯田貯蓄銀行頭取、伊那電車軌道株式会社取締役、明治42年から45年までの衆議院議員等が見られる。
依頼者調査済みの資料には赤十字社長野支社長とあるとのことだが、日本赤十字社長野県 支部創立100周年記念誌の『百年を迎えて』 日本赤十字社長野県支部 1991年 【N498/139】に掲載されている歴代支部長、副支部長、事務局長には上柳の名は見られない。ただし、日本赤十字社の地方委員、長野県支部委員、特別社員などを務め、明治39年に赤十字社から佩有功章を授与されているらしい。
5 手塚光雄
生年:明治元年(1868年)9月15日
没年:大正14年(1925年)12月15日
【参考資料9】、【参考資料10】p559「手塚光雄」の項などがある。
原野村征矢野安六の次男として生まれ、明治12年に宮越村手塚太左衛門の養子となっている。
『日義村史』p46(人物史)3によると、初代日義村長の助役を勤めた後、推されて明治39年2代村長となり、大正14年に引退しているとあるが、同資料中の「編年史」p488では、現職中に死去と記載されている。
松岡治三郎氏(次項)の県会議員任期中の死去を受けて行われた補欠選挙(大正10年5月実施)から次回(大正12年9月27日)選挙までの期間、県会議員を務めている。
6 松岡治三郎
生年:嘉永6年(1853年)月日不明
没年:大正9年(1920年)2月28日
【参考資料11】「人物編 西筑摩郡之部」p2の「勲七等 松岡治三郎翁 西筑摩郡 福島町」の項がある。
「明治37年5月助役に選任、同年10月町民に当選、衆望を担ひて町政を料理し、大正2年9月に至る」とあるが、他資料で確認できる町長在任期間から、「町民」は「町長」の誤りと思われる。
同資料には、その後明治44年から3期県会議員、うち1期間は副議長を務めたという記載があるが、【参考資料12】では県会議員当選は大正2年5月の補欠選挙となっている。また【参考資料13】では、大正8年10月から副議長となり、任期中の大正9年2月21日死亡としているが、『長野県報』では大正9年3月19日の第443号掲載の長野県告示第102号で「西筑摩郡選挙区県会議員松岡治三郎ハ本年二月二十八日死亡セリ」となっており、『信濃毎日新聞』でも同年2月29日付け紙面で、28日の死去を伝えている。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本 (281)
- 鉄道運輸 (686)
- 参考資料
-
- 参考資料1:『松本商工会議所一一〇年の検証』松本商工会議所/編・発行 1991年 当館請求記号【N330/28b】
- 参考資料2:『中村弥六物語』森下正夫/著 高遠町 1997年 【N289/ナカム】
- 参考資料3:『長野県歴史人物大事典』 郷土出版社 1989年 【N283/13】
- 参考資料4:『信濃の人』信濃史談会/編 求光閣書店 1914年 【N280/10】
- 参考資料5:『帝国信興名鑑 長野県之部』 丸山孝/編 信興社 1904年 【N280/7】
- 参考資料6:『伊那繁昌記』吉川源美/編 拡栄堂 1910年
- 参考資料7:『日本人物情報大系 30』 皓星社 2000年 【280.08/ハノ/30】
- 参考資料8:『日本人物情報大系 32』 皓星社 2000年 【280.08/ハノ/32】
- 参考資料9:『日義村誌歴史編下巻』日義村史編纂委員会/編・発行 2002年 【N234/105-1-2】
- 参考資料10:『長野県姓氏歴史人物大事典』 角川書店 1996年 【N288/158】
- 参考資料11:『地方発達史と其の人物』鈴木善作/編・発行 1940年 【N290/42】
- 参考資料12:『長野県会沿革史 第5編』 長野県 1915年 【N314/19/5】
- 参考資料13:『長野県会沿革史 7編』 1925年 【N314/19/7】
- キーワード
-
- 鉄道
- 中央本線
- 照会先
-
- 飯田市立中央図書館様
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000190375