レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2007/02/22
- 登録日時
- 2007/11/10 02:11
- 更新日時
- 2007/11/10 02:11
- 管理番号
- 福島地域0103
- 質問
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解決
福島県に藍染がどのように伝播、普及していったのか知りたい。
- 回答
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寛文五(1665)年の文書(大塩組風土記之帳)中に「藍」の記載がありました。栽培法としては、貞享元(1684)年成立の「会津農書」に記述がありました。また、福島県においては明治期に最盛期を迎えたようです。 伝播の過程については判明しませんでした。詳細は別掲資料の該当部分をご覧ください。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 染色加工.染色業 (587 9版)
- 参考資料
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- 福島県史 第24巻 (・p42に「会津坂下の青木地方は藍の産地であり、染め屋も栄えたという」・p148に「会津坂下町青木部落を中心として、立川・沼越・東河原あたりには、藩政末期ごろから本染めの原料である藍作りが行われているが、伝承によれば、先人が大川の氾濫原で、洪水害に耐えうる作物として移入してきたのであるという。」とあり。・p779-785に、『福島県の民俗 民俗資料緊急調査報告書』(福島県教育委員会/編)の染織の項目あり。起源や普及への言及はなし。当館請求記号、資料番号は、L210.1/F1/1-24、100007145)
- 東北民俗資料集 7 (・p40-54に「東北南部における草木染」 芳賀玲子/著の小文あり。P41-49に藍染の項目あり。福島県の話は10人の聞き取りが掲載されている。ただし、起源や普及への言及はなし。当館請求記号、資料番号は、L382/I2/1-7、100055151)
- 会津大事典 (・p36-37に会津木綿の項目あり。「会津藩主加藤嘉明が会津に移ったとき(1627・寛永4)前領地の伊予松山(愛媛県)から織師を招いて伝習したのが会津木綿の起こりといわれている。 [中略] 会津若松市の木綿織元の染工場には藍神様(あいがみさま)といって和紙で男女一対に人形(ひとがた)をつくり、奉納してある。これは毎年正月に、年中藍がよく染まるようにと作る。人形の半分下の方を染めぬく。こうした風習は、会津地方の藍染の起源をたどる上で貴重な資料といえる。」とあり。当館請求記号、資料番号は、L302.1/A1/1、100117944)
- 福島大百科事典 (・p1-2にあいぞめ、p17に会津木綿の項目あり。『会津大事典』と同じような内容。起源、普及に関しての記述はなし。当館請求記号、資料番号は、L302.1/F2/1、100117969)
- 福島女子短期大学研究紀要 第22集 (p17-31に「本邦における藍染め-その歴史と実際(その1)」(高橋八重子/著)の論文あり。「日本では縄文時代から藍染めがあり、弥生後期(3世紀)に養蚕が行われ、草木による染織は古い時代からあった」(p18)。当館請求記号、資料番号は、L051/F8/1-22、100248293)
- 日本農書全集 第19巻 (・「会津農書」中巻のうち藍の記載があったのは、黄真土畑相当作毛(p96)、樹下畑相当作毛(p101)、諸菜植蒔時節(p103、104)、畑作毛一反ノ種考(p165)、畑作毛返作ノ善悪(p169)、畠作毛古種子可否(p170)の項目。 ・「会津農書」下巻のうち記載があったのは、因里草木量田畠作毛時時(p179、185)の項目。 同書は貞享元(1684)年成立。当館請求記号、資料番号は、L610.1/S2/3、100384155)
- 日本農書全集 第20巻 (・「会津歌農書」のうち、藍に関する歌は45首あり(p135,146、159、278-286)。藍の項目があり43首が収録。その前書きに藍の普及についても記載があり以下転載する。 「過つる元禄十一戌寅の年衣更着(如月)の末方、四国阿波国名東郡猪津の住人、仁木氏三右衛門尉政義、宍戸氏涼太夫正秀といへる両翁、当郡に来たり給ひて藍畑手作したまふなり。予彼藍園にのぞんで、其業微細にこれを見て一巻の書に綴り置なり。其あらましを此歌農書に記し侍る」(p278)当館請求記号、資料番号は、L610.1/S2/4、100384171)
- 会津坂下町史 1 (・p106-107に「藍の栽培は阿賀川沿岸部(端縁[はぶち])でかなり古くから盛んに行われた。」とあり。・p106-107に「藍がいつ頃から栽培されたかは明らかではないが、もっとも盛んだったのは明治から大正にかけてであった。」(p125)および「青木では明治の初めから染屋があったが、その起源はあまりはっきりしない。大和屋は現在の主人佐藤庄太郎氏によると染屋を専業とするようになったのはやはり明治の初年らしく帳簿で一番古いのが明治二十年となっているのが残っているとのことである」との記載あり。当館請求記号、資料番号は、L217/A4/1-1、100512219)
- 会津型喜多方の染型紙 (・p12に「寛文六年(1666)の「会陽町街改基」に若松城下町毎の諸職の数が記されているが、その中に紺屋三、泥染屋九、紺掻九二があり、これらすべてを染屋とみて合計すると一○四軒になる。当時の若松城下の総家数三二五六軒からみて、決して少なくないと思われる。」との記載あり。 ・p13に「この他寛文五年(1665)「大塩組(後の小沼組)風土記」に大塩村に六八石四斗の藍役が課され」とあり。当館請求記号、資料番号は、L587.4/K1/1、100657493)
- 奥会津地方の山村生産用具 4 (・p13に、正保二年(1645)田島町差出帳に「染師六人但百姓ニテ公義エモ町中エモ御役無御座候」と記載があった。田島町の文書資料で染色業に関する最古の記述。当館請求記号、資料番号は、L383/T1/1-4、100673078)
- いわき地方史研究 第28号 (・p105にまとめの項目あり。[夏井川沿岸で]「いつごろから藍生産がはじまりいつごろまで続けられたのであろうか。この点についてははっきりしない。鈴木家文書の最も古い資料としては、寛政年間ごろ[1789-1800]と思われる「売物覚」に「一.金弐両あい玉代」という記録があるが年号がはっきりしないので確かめられない。註(3)[『いわき市史 第二巻』]の泉藩の場合も寛政年間ごろから「藍行商」とか「藍玉宿」があるが詳しいことはわからないという。」とあり。当館請求記号、資料番号は、L210.05/I2/15、100704543)
- 藍のいのち (・p1-7に日本における藍の染色史概要が記載されているが、福島及び東北への言及はなし。 ・p117に「藍」と「紺屋町」として紺屋町の地名を残す都市を紹介しているが、その中に会津若松市紺屋町があり、江戸期から昭和42年まであったと記載。文化文政期の家数64軒。 ・p124-126に近世の藍専売制のなかで会津藩への言及あり。「1809(文化6)年一時藍の専売実施か」と記載あり。当館請求記号、資料番号は、LA577.6/T、100739895)
- 染める (博物館の企画展図録。当館請求記号、資料番号は、L069/F3/42、100783992)
- 江戸後期諸国産物帳集成 第3巻 (・p479に 寛文五年[1665年] 大塩組風土記之帳として耶麻郡大塩村の作目で「藍」の記載あり。当館請求記号、資料番号は、L602/Y3/1、100841675)
- 日本の伝統工芸 1 (・p162-163に会津木綿の紹介項目あり。大野力/著 [会津木綿の]「始まりは江戸時代の寛永20年(1643)ごろ、時の藩主・保科正之の殖産奨励策によって、木綿織が本格化したといわれる。」とあり(p162)。[青木の地域の]藍の栽培が本格化したのは明治中ごろからだった。」(p163)当館請求記号、資料番号は、750.8/N4/1、300222221)
- 日本人の生活と文化 8 (・p176に用語解説の項目あり。福島県会津木綿の解説が15行記載。「会津坂下町付近を流れる只見川と大川は雨期になるとよく氾濫し、そのために農作物は大きな被害を受けていた。この農作物に変わるものを研究した結果、藍があった。明治中期には藍の栽培は最盛期を迎え・・・」とあり。当館請求記号、資料番号は、382.1/N16/8、300667953)
- 国史大辞典 第1巻 (・p1に「藍」の項目あり。「寛永ごろの主産地は山城・尾張・美濃と『毛吹草』は記し、ついで徳島藩の保護と奨励によって粟吉野川沿岸地帯の栽培へ発展して全国的に販売されるにいたった」と記述あり。当館請求記号、資料番号は、210.03/K17/1、300807864)
- 木綿口伝 (・p57-66に「藍作の起源については明らかではないが、古くから植物染料の最高品として、原始的な摺染法などにも用いられた。『出雲風土記』によると、出雲民族は天平時代(729-49)から藍の摺染技法を知り、それを播磨へ伝えていると記録している」とあり。p58には「藍作は十七世紀には全国に普及し発展したが」とあり。同ページの「明治初期の藍の主要産地は・・・」として福島県も列挙あり。当館請求記号、資料番号は、586.2/F、301269064)
- キーワード
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- アイゾメ
- 藍染
- アイ
- 藍
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 会津若松市教育委員会のホームページに、会津木綿の歴史についての記述がありますが、その中で藍草に関する記述があります。
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000039184