レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年10月14日
- 登録日時
- 2013/10/14 11:16
- 更新日時
- 2013/10/14 23:15
- 管理番号
- 20131014-1
- 質問
-
解決
土塔について知りたい。
- 回答
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土塔 【どとう】 コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E5%9C%9F%E5%A1%94 (2013/10/14確認)
国指定史跡完全ガイド
どとう【土塔】
大阪府堺市中区土塔町にある仏教施設の遺構。泉北丘陵南端の平野を望む場所に立地する。塔山とも呼ばれ、地名の由縁にもなっている。奈良時代の僧行基(ぎょうき)が創建した大野寺の13層の仏塔の跡といわれる。1辺53.1m、高さが8.6m以上のピラミッド形の塔で、土台となる基壇の上に方形の段が12層、円形の段が1層あり、その上部には多宝塔の上層部のような建物があったと想定される。段は粘土塊を並べて積み重ね、その間に土を入れ、水平にして固め積み上げ、各層と前面は約6万枚の瓦で葺いている。出土した瓦には、へら状の工具を用いて文字を記したものが1300点もあり、その大半には僧侶、豪族、一般庶民といったさまざまな階層の名が確認されている。・・・
どとう【土塔】 国史大辞典
大阪府堺市土塔町にある八世紀の段塔。大野寺土塔ともいう。神亀四年(七二七)に行基が建立した大野寺の寺域にある。鎌倉時代末期の『行基菩薩行状絵伝』(家原寺蔵)では、大野寺に「十三重土塔在之」と注記して、頂部に宝珠を置いた方錐形の図を描く。現状は底辺五四―五九メートル、高さ約九メートルのピラミッド形の塚で、各辺は東西南北の正方位を向く。版築で盛土をして、斜面に直接瓦を葺いていたという。出土瓦には僧尼名や女性名を含む人名を篦(へら)書きしたものが多い。東日本の国分寺で出土する郡郷名や戸主名の文字瓦とは異なり、政治的強制を伴わない寄進による瓦と解釈できる。文字瓦の姓の表記法を根拠に、土塔が完成したのは天平宝字三年(七五九)以降とする説もあるが、行基在世中の所産と考えたほうがよい。・・・
[参考文献]
森浩一「大野寺の土塔と人名瓦について」(『文化史学』一三)
どとう【土塔】 大阪府:堺市/土塔新田/大野寺 日本歴史地名大系
大野寺の南東、大門池の東にある扁頭方錐形に土を重ねて作られた塔。現在の土塔町の名はこの塔にちなむ。昭和二七年(一九五二)損壊が激しくなったため応急調査され、翌二八年国の史跡に指定され保存されている。調査の結果は高さ九メートル、東辺五二メートル・西辺四八メートル・南辺五七メートル・北辺五三メートルであったが、本来は一辺五〇―六〇メートルあったものと推定されている。また断面観察の結果、柱状土層が一三層確認されている。さらに調査以前、土塔周辺から多数の文字瓦が採集されており、智雲・蓮光・善信尼など僧尼名、高志・土師・百済・荒田・丹比・大伴などの氏族名、そのほか姓をもたない人々の名が確認されている。この土塔がいつ頃築造されたかは確定はされていないが、これら出土瓦などから行基在世中に行基の同行者・結縁者の合力によって建造が始められたものと推定されている。鎌倉時代成立とされる行基菩薩行状絵伝(家原寺蔵)の大野寺の部分に土塔がみえ、頂上部に宝珠が描かれている。近世の寺院改帳などには「十三重塔」「十三重土塔」とみえ大野寺に属している。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 仏教史 (182 9版)
- 日本の建築 (521 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 大野寺
- 土塔
- 行基
- 土師氏
- 家原寺
- 瓦
- 堺
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000138661