レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020年07月09日
- 登録日時
- 2022/01/21 13:53
- 更新日時
- 2024/01/15 11:05
- 管理番号
- 横浜市中央2641
- 質問
-
解決
山下公園(横浜市中区)前に係留されている氷川丸の桟橋に白灯台がある。
現在は使われていないが、かつては実際に使われていたものだと聞いた。
いつからいつまで使われていたのかを知りたい。
- 回答
-
下記の資料から、氷川丸の係留桟橋にある灯台は
明治29(1896)年に横浜港内の東水堤に設置された灯台が
山下ふ頭建設にあたって昭和38(1963)年に撤去され、
のちに現在の場所に移設されたものであることがわかりました。
1 氷川丸繋留桟橋にある白灯台の歴史
白灯台について、簡単にまとまっている資料をご紹介します。
かつては東水堤にあり、「赤灯台(北水堤灯台)」と対になって使用されていたことが
わかります。
(1)『港ヨコハマ博物まっぷ』
中区内博物館職員連絡会/編 中区内博物館職員連絡会 1989.8
p.88
「明治二十九年(一八九六)、港内の水堤先端には赤と白の無人灯台が
設置されます。北水堤が赤灯台、東水堤が白灯台。(中略)白灯台は
昭和三十八年(一九六三)山下ふ頭建設の際撤去され、現在は山下公園
先の氷川丸の桟橋先端に保存されています」
(2)『愛しの灯台100』不動まゆう/著 書肆侃侃房 2021.1
p.78「横浜北水堤灯台(よこはまきたすいていとうだい)」
「双子のようにそっくりな東水堤灯台は、(中略)山下埠頭の建設に伴い防波堤自体
が撤去され、現在は山下公園の「日本郵船氷川丸(見学できる博物館船)」の隣に
移設保存されている」
(3)『日本の産業遺産300選 3』産業考古学会/〔ほか〕編 同文館出版 1994.5
p.121
「「氷川丸」の繋留桟橋の先端にある灯台は、本来は横浜港内防波堤先端に
あったものを昭和三八年現在地に移設したもの。イギリス陸軍工兵少佐パーマー
(H.S.Palmer)の設計で、明治二九(一八九六)年に完成している」
(4)『横浜学セミナー17 横浜の水辺』
はまぎん産業文化振興財団/編 横浜学連絡会議 1996.3
p.58
「現在、見られる灯台としては、氷川丸の横に設営されていて、明治二十九年に
造られた白灯台。(中略)保存しましょうということになって、
氷川丸のそばに置かれることになりました」
(5)「横浜のみなと:「ウォーターフロント探検」から学ぶこと」
藤原惠洋(「調査季報」98号 横浜市政策局政策課 1988.6 p.3~16)
p.14
「氷川丸繋留桟橋の先端に設けられた灯台を確認しておこう。これは明治二十九年
建造された鉄造の白灯台である。第一次横浜築港計画の際、東水堤に設けられた
ものであった」
2 設置から移設までの経緯
灯台の概要や設置から撤去までの経緯がわかる資料、新聞記事等をご紹介します。
当時は「東水堤」に設置されていたため、記録類には「東水堤灯台」と記されています。
初めて点灯されたのは明治29(1896)年4月1日、撤去されたのは昭和38(1963)年
10月21日です。撤去時には移設が未定でしたが、のちに移設保存されることになり
ました。
(1)設置・概要
ア『横浜築港誌』〔臨時横浜築港局〕/編 臨時横浜築港局 1896.12
灯台の設置経緯も記載されており、p.149に「其東水堤ニ於テハ二十八年
十二月十四日に著手シ二十九年三月ニ竣工ス」とあります。
※横浜市立図書館デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」で閲覧可能です。
https://archive.lib.city.yokohama.lg.jp/museweb/detail?cls=collect_01&pkey=00000307
イ『神奈川県統計書 明治30年』神奈川県 1899.7
p.258「第一七七表 灯台燈竿及燈船」に「横浜東水堤灯台」があり、
設備概要が掲載されています。「初メテ点火セシ日」は明治29(1896)年
4月1日です。
※横浜市立図書館デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」で閲覧可能です。
https://archive.lib.city.yokohama.lg.jp/museweb/detail?cls=collect_01&pkey=00002576
ウ『航路標識便覧表 明治30年』航路標識管理所/編 日本海員掖済会 1897.7
p.2「横浜東水堤」に、概要が掲載されています。
「初点」は、明治29(1896)年4月1日です。同資料の明治26、28、29年版には、
横浜築港工事中には仮設の灯台があったことも記載されています。
※「国会図書館デジタルコレクション」で閲覧可能です。(コマ番号:99)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847030/99
エ『燈臺表 第1巻(昭和15年12月1日調査)』水路部/[編] 水路部 1941
p.4「横浜東水堤」に、概要が掲載されています。
※「国会図書館デジタルコレクション」で閲覧可能です。(コマ番号:24)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10304764/24
(2)撤去
ア「官報 昭和38年10月24日号」本紙第11058号 p.10 海上保安庁告示第239号
昭和38(1963)年10月21日付けで撤去する旨記載があります。
イ「いよいよ姿消す「白灯台」」(「神奈川新聞」1963年9月29日 本紙横浜p.8)
灯台の歴史や、港の工事に伴い白灯台が撤去される予定であることが
記載されています。撤去後については、
「赤灯台とともに横浜港のシンボルとして親しまれてきた白灯台は
これで永遠に姿を消すことになるわけだ」とあります。
ウ「姿消す白灯台」(「読売新聞」1963年10月19日 神奈川p.13)
灯台の歴史や、港の工事に伴い白灯台が撤去される予定であることが
記載されています。撤去後については、
「三管でも「撤去後のことはなにも決まっていない。保存するにしても、
大きなもので場所もいるし、維持費がたいへんだ」と役目を果たし、
これから""""余生""""を送る白灯台の身の振り方にはツレない返事」
とあります。
エ「クレーンですっぽり」(「神奈川新聞」1963年10月22日 本紙p.7)
10月21日に撤去工事が行われたことが記載されています。
撤去後については、「そのまま神奈川区橋本町の二港建・建設設備事務所へ。
(中略)運ばれた白灯台は同所に保管するか、保存の声がなければ解体するそうだ」
とあります。
(3)移設・再点灯
ア『20年の歩み』氷川丸マリンタワー 1981.2
p.59年表の昭和39(1964)年8月1日に、白灯台設置と記されています。
『氷川丸マリンタワー30年史』(氷川丸マリンタワー 1991.2)p.136、
『「氷川丸」調査報告書』(横浜市教育委員会生涯学習部文化財課 2004.3)
p.128にも同様の年表があります。上記資料1(3)では移設は昭和38(1963)年と
されており、齟齬がありますが詳細は不明です。
イ「再び火がともされた白灯台」(「読売新聞」1965年4月2日 神奈川 p.16)
「""""白灯台""""が一年半ぶりに、山下公園の氷川丸桟橋に再建され、一日夕、
奥村三管本部長らの手によって火がともされた。(中略)この灯台は
観光用で山下公園側だけを照らす。」とあります。
3 そのほか
『神奈川県関係新聞記事索引 第1集-第5集』(神奈川県立図書館 1962-1966)
に、当館で所蔵していない新聞の記事が紹介されています。
(1)第4集 p.326
「消えるハマ名物「白灯台」航路の拡張工事で、来月限り」
(「東京新聞」京浜版 昭和38年9月29日p.8)
「姿を消すハマのシンボル白灯台」
(「産経新聞」横浜版 昭和38年9月30日p.14)
(2)第5集 p.318
「白灯台消えず、来月から光り再び、氷川丸わき、教材用に余生」
(「東京新聞」京浜版 昭和39年10月18日p.12)
WEBサイトの最終確認日は2023年12月25日です。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 航海.航海学 (557 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000311007