レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009/04/21
- 登録日時
- 2009/09/09 02:11
- 更新日時
- 2009/09/17 09:11
- 管理番号
- 埼熊-2009-014
- 質問
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解決
渋江氏が岩槻城の築城に関与したかどうか、記述がある資料は存在するか。埼玉資料を調べてほしい。
- 回答
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以下の資料に岩槻城築城に渋江氏が関与したという記述があり、これらを紹介する。
『戦国武将太田資正 岩付城主、岩付太田氏及び当時の情勢』(道野昭壽 1998)
p8-9に〈岩付城築城の目的〉「渋江氏対策 渋江氏は、(略)関東管領山内上杉房顕は、渋江氏に対し、岩付城築城に協力を命じたと考えられる。渋江氏にとってはまさに晴天の霹靂であった。(略)しかし成田正等には自領があるので、何れ戻る時があれば、渋江氏が城主となる位の密約は交わされていたと見るのが本筋であろう。これは飽く迄もなく推論であるので、ご了承願いたい。今後史料を基に解明していく必要がある。」とあり。
このほか渋江氏が関与したという記述はないが、岩槻城築城に関する下記資料もあわせて紹介する。
『岩槻城と城下町』(岩槻市教育委員会 2005)冒頭、p5-
『戦国期東国の大名と国衆 』(岩田書院 2001)p60-62
「成田氏の岩付城築城について」(『岩槻史林 第34号』p76-78 岩槻地方史研究会 2007)
『戦国時代のさいたま 城と館からさぐる』(さいたま市立博物館 2005)p5-8
『府内三丁目遺跡 1』(岩槻市遺跡調査会 2002)p4
『岩槻市史料 4 講習会特集』(岩槻市市史編さん室 1975)p61
『扇谷上杉氏と太田道灌』(黒田基樹 岩田書院 2004)p175
『葦のみち 2号』(三郷市 1990)p86
『岩槻史林 創刊号』(岩槻地方史研究会 1971)p4-11
『岩槻史林 6』(岩槻地方史研究会 1977)p85-101
『岩槻史林 18』(岩槻地方史研究会 1987)p30
『新岩槻史譚』(田中午比古 大和学芸図書 1982)p7-8
- 回答プロセス
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回答した資料のほか、岩槻城築城に関する資料は以下のとおり。
『岩槻城と城下町』(岩槻市教育委員会 2005)
冒頭の「本書をひもとく方々へ」に、『岩槻市史 通史編』刊行以後に新たに解明された事実を極力取り入れ、同書の記述とは異なった事実も記されているとの記述あり。同書によると扇谷上杉方の太田父子によるものではなく古河公方方の成田氏による築城説が最近は有力のよう。
p5以下にこれまでの通説として、
「『鎌倉大草紙』に「長禄元年四月、上杉修理大夫持朝入道、武州河越の城を取立てらる、太田備中守入道(道真)ハ武州岩槻の城を取立、同左衛門大夫(道灌)ハ武州江戸の城を取立ける」という記述があり、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝が家宰の太田道真・道灌父子に命じて築城させた城郭群の一つに端を発している。しかし、(略)寧ろ古河公方方の忍城主成田顕泰の父自耕斎正等による築城を窺わせる重要史料が所在することが明らかにされ、近年は従来とは逆の枠組みによる理解が通説の位置を占めつつある。」とあり。
渋江氏については、「渋江氏が成田顕泰らとともに山内上杉氏方と行動していた」と記述があるのみで、築城に関与したとの言及はなし。
『戦国期東国の大名と国衆 』(岩田書院 2001)
「第2章 扇谷上杉氏と渋江氏 -岩付城との関係を中心に-」p60-62に、岩槻城の築城時期と築城者について論述あり。著者は通説的見解である扇谷上杉方の太田父子による説に対して、史料の裏付けを基に古河公方方の成田氏説を主張している。しかし、渋江氏の築城への関与は言及なし。
『岩槻史林 第34号』(岩槻地方史研究会 2007)
p76-78「成田氏の岩付築城について」(黒田基樹)にもほぼ同内容の記述が見られるが、やはり渋江氏の築城への関与については言及されず。
『戦国時代のさいたま 城と館からさぐる』(さいたま市立博物館 2005)
p5-8〈戦国時代の岩付城をめぐって〉(大村進)。築城の謎について、扇谷上杉氏方説と古河公方方説について論述されているあが、築城にあたり渋江氏が関わったという記述はなし。
『府内三丁目遺跡 1』(岩槻市遺跡調査会 2002)
p4「研究史調査歴」に渋江氏の居館跡についての記述があり。
『岩槻市史料 4 講習会特集』(岩槻市市史編さん室 1975)
p61「岩槻城の流れ」に渋江氏の館についての記述があり。
『扇谷上杉氏と太田道灌』(黒田基樹 岩田書院 2004)
p175 成田氏による築城についての記述があるが、渋江氏の関与についてはなし。
『葦のみち 2号』(三郷市 1990)
p86に成田氏と岩付の関係として、岩付城を築城したのは成田顕泰の父との記述があり。
*出典(未確認):「自耕斎詩軸?序」(「信濃史料」p10-39「関東禅林詩文等抄録」中)
渋江氏による関与については記述はなし。
『岩槻史林 創刊号』(岩槻地方史研究会 1971)
p4-11「岩槻城に付て」に太田道灌がつくったとあり。
『岩槻史林 6号』(岩槻地方史研究会 1977)
p85-101「岩槻城について」に築城について若干の記述があり。
『岩槻史林 18号』(岩槻地方史研究会 1987)
p30「10月例会記」に太田氏が築城したとあり。
『新岩槻史譚』(田中午比古 大和学芸図書 1982)
p7-8に「渋江氏によって兎に角集落が出来、其後長禄元年太田道灌が築城した」との記述があり。
- 事前調査事項
- NDC
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- 関東地方 (213 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 日本の建築 (521 9版)
- 参考資料
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- 『戦国武将太田資正 岩付城主、岩付太田氏及び当時の情勢』(道野昭壽 1998)
- 『岩槻城と城下町』(岩槻市教育委員会 2005)
- 『戦国期東国の大名と国衆』(黒田基樹 岩田書院 2001)
- 「成田氏の岩付城築城について」(『岩槻史林 第34号』p76-78 岩槻地方史研究会 2007)
- 『戦国時代のさいたま 城と館からさぐる』(さいたま市立博物館 2005)
- 『府内三丁目遺跡 1』(岩槻市遺跡調査会 2002)
- 『岩槻市史料 4 講習会特集』(岩槻市市史編さん室 1975)
- 『扇谷上杉氏と太田道灌』(黒田基樹 岩田書院 2004)
- 『葦のみち 2号』(三郷市 1990)
- 『岩槻史林 創刊号』(岩槻地方史研究会 1971)
- 『岩槻史林 6』(岩槻地方史研究会 1977)
- 『岩槻史林 18』(岩槻地方史研究会 1987)
- 『新岩槻史譚』(田中午比古 大和学芸図書 1982)
- キーワード
-
- 渋江(シブエ)氏
- 岩槻城
- 埼玉県-城郭-遺構-遺跡
- 郷土資料
- 関東地方-歴史-戦国時代
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000057736