レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20101006
- 登録日時
- 2020/09/17 00:30
- 更新日時
- 2020/09/17 09:55
- 管理番号
- 0001002166
- 質問
-
解決
沖縄戦の10・10空襲後、沖縄県行政の運営状況について知りたい。
- 回答
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以下の資料を紹介した。
①
『沖縄縣史 第3巻 各論編2(経済)』(琉球政府 編、国書刊行会、1989.10)
p779-780 「一九四五年、不気味な空襲警報の鳴りひびく中で?決戦行政”はめまぐるしく展開された。…一月二十七日には、空襲下の?決戦行政”を迅速に執行するため、県庁の各部課を城岳および与儀周辺に分散移転した。」の記述がある。
②
『沖縄戦研究 Ⅱ』(沖縄県文化振興会公文書館管理部史料編集室 編、沖縄県教育委員会、1999.2)
p190-191 「影響」の項目に、「泉県知事は空襲の夜、普天間の中頭地方事務所に避難した。この日から県庁の仮事務所は中頭地方事務所に移された。県庁舎は残っていて、警察部と経済部は正常な勤務に就いており、荒井警察部長が空襲の後始末に追われていた。」の記述がある。
③
『消えた沖縄県』(浦崎 純 著、沖縄時事出版社、1965.10)
p255 「三月二十五日、米軍の慶良間列島上陸で県庁は首里に移動、知事以下県庁職員は四月一日米軍の沖縄上陸までの間、退避と食糧の分散輸送をギリギリまでつづけた。」の記述がある。
④
『沖縄行政機構変遷史 明治12年?昭和59年』(照屋 栄一 著・刊、1984.8)
p104 「戦時期沖縄県庁機構の変遷(昭和15年~昭和20年)」の図で、「昭和20年2月11日臨戦体制機構改編により平常行政事務は全面的に停止 新設の人口課と食糧配給課に集中」の記述がある。
⑤
『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』(田村 洋三 著、中央公論新社 2003.4)
p 103 「おびえる知事と内政部長」の項目に、「県の記録が焼失しているので空襲から数日後、としか分からないのだが、荒井は焼け残った県庁舎に戻り、警察部の執務を再開した。那覇署も県会議事堂と県庁東隣の県立工業指導所で仕事を始めた。」の記述がある。
➅
『沖縄戦新聞 当時の状況をいまの情報、視点で』(琉球新報社 編、琉球新報社 2006.2)
第3号10.10空襲 「県庁の機能まひ 泉知事、中部へ避難」の記事に、「泉守紀知事は米艦載機の空襲後、県庁舎を離れ中城地方事務所が置かれた普天間権現の洞くつに避難。一部焼け残った県庁舎に荒井退造警察部長がとどまり後始末に奔走したが、県の行政機能は一時的にまひした。」の記述がある。
➆
『沖縄県庁舎建設記念誌』(沖縄公報センター/編,沖縄県総務部管財課/監修 沖縄県総務部管財課 1995.3)
p30-31「戦時行政 昭和19年~20年」で、p30「県庁舎は十・十空襲ではかろうじて残ったが、その後の爆撃で壊滅した。昭和20年1月27日、県は防空本部を真和志村二中前城岳に移し、内政部・経済部は城岳・与儀一帯の民家に各課分散して配置した。2月に入ると県の行政は戦時行政に切り換えられ、緊急課題となっている国頭郡への中南部住民10万人移動を実施する特別援護事務と、食糧配給事務に集中することになった。そして、2月11日、臨時体制機構改編を行ない、従来の特別援護室を拡充して人口課を新設し、同時に食糧配給課を強化した。他の課は平常業務を停止して、この2課に増員された。昭和20年3月27日、空襲の中、県庁は首里城下の壕内に移転した。しかし、4月1日には米軍が沖縄本島に上陸、日本軍との間で激しい戦闘が繰り広げられ、軍民約18万8,000人の犠牲者を出す地上戦となった。県の組織は、5月に沖縄県後方指導挺身隊と警察警備隊に編成されるが、沖縄本島南部の戦場を転々とするうち、6月にはその組織としての機能を完全に停止した。」の記述がある。
p30「昭和19・20年の県庁組織」の表で、県庁組織の変遷を確認できる。
⑧
『沖縄県行政庁舎のあゆみ』(沖縄県広報協会/編 沖縄広報センター 1987.3)
p50「戦場行政」で、「臨戦体制下および米軍上陸後の戦場においては、県庁を中心に「戦場行政」が行われた。…県および各市町村自治体の主たる業務は、非戦闘員の安全保護と現地軍に対する民間人の協力体制の確保などであった。昭和十九年(一九四四)政府は非戦闘員の強制疎開を決定。沖縄県には、本土や台湾に老幼婦女子を疎開させるよう指示が出された。沖縄県では、ただちに警察部に「特別援護室」を設け、各警察署や小学校長に手配して業務にあたった。…沖縄戦の開始とともに県庁は首里の軍司令部付近へと移動し、軍に協力しながら、「戦場行政」を遂行した。緊迫した戦闘が展開されるなか、島田知事は、未占領地区南部市町村会を開き、県庁機構を一本化して「沖縄県後方指導挺身隊」を編成し、本部を豊見城村長堂の壕内に設置。未占領地区の市町村に分遣隊を派遣するとともに、住民の士気高揚、夜間増産、壕内の生活指導などを行い、県民の安全保護と現地軍のバックアップに努めた。」の記述がある。
⑨
『沖縄県史 第6巻 各論編6 沖縄戦』(沖縄県教育庁文化財課史料編集班/編 沖縄県教育委員会 2017.3)
p441-444「一、県庁」の項で 「四五年一月、泉知事が解任され、島田叡が第二七代県知事となる。その時点の沖縄県庁の組織は知事官房、内政部、経済部、警察部等であるが、二月十一日の臨戦体制機構改編により県の平常行政事務は全面的に停止し、新設の人口課と食糧配給課に業務が集中した。戦時行政への転換である。」「米軍上陸が目前となった三月二五日、島田知事は県庁の首里移動を命じる。…県庁も土木課、教学課は首里高等女学校の地下洞窟、島田知事は繁多川の那覇署の壕(新壕、ミーゴー)に移る。四月一日、米軍が嘉手納に上陸すると、…二五日、知事は新壕の南東約五〇〇メートルに構築された真地のシッポウジヌガマに移動。そこはすでに警察部所員らが移動しており、壕は県庁壕となる」「五月一日、島田知事は戦場における行政機関として沖縄県後方指導挺身隊を創設する。挺身隊は知事を総帥に本部のほか、企画班、志気昂揚班、増産督励班、壕生活指導班などを組織、県の行政活動は軍の前線活動の支援が主な業務となった。…五月二二日、第三十二軍はついに首里を放棄し、南部へ撤退することを決めた。知事以下、県庁職員も、…南部を転々とすることになった。六月三日、知事は挺身隊を小班編成とし分散、難民保護を命じた。とはいえ県庁職員もまた避難するだけであり、事実上の解散である。ここに沖縄県の行政はその機能を停止した。」の記述がある。
⑩
『戦さ世の県庁 -記録集成-』(荒井 紀雄/著 荒井紀雄 1992.8)
沖縄戦当時の行政についての資料。
p48-49「沖縄県庁行政機構変遷図」が記載されている。
p275-267「沖縄県庁移動経路図」が記載されている。
p279-286「年表」が記載されている。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 歴史 (2)
- 参考資料
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- 沖縄縣史 第3巻 各論編2(経済) 琉球政府/編 国書刊行会 1989.10 (p779-780)
- 沖縄戦研究 Ⅱ 沖縄県文化振興会公文書館管理部史料編集室/編 沖縄県教育委員会 1999.2 (p181-216)
- 消えた沖縄県 浦崎 純/著 沖縄時事出版社 1965.10 (p255)
- 沖縄行政機構変遷史 明治12年?昭和59年 照屋 栄一/著 照屋 栄一 1984.8 (p104)
- 沖縄の島守 内務官僚かく戦えり 田村 洋三/著 中央公論新社 2003.4 , ISBN 4-12-003390-2 (p103)
- 沖縄戦新聞 当時の状況をいまの情報、視点で 琉球新報社/編 琉球新報社 2006.2 , ISBN 4-89742-070-7 (2004.10.10)
- 沖縄県庁舎建設記念誌 沖縄公報センター/編,沖縄県総務部管財課/監修 沖縄県総務部管財課 1995.3 (p30)
- 沖縄県行政庁舎のあゆみ -県民と共に激動を生き抜く- 沖縄県広報協会/編 沖縄広報センター 1987.3 (p50)
- 沖縄県史 第6巻 各論編6 沖縄戦 沖縄県教育庁文化財課史料編集班/編 沖縄県教育委員会 2017.3 (p441-444)
- 戦さ世の県庁 -記録集成- 荒井 紀雄/著 荒井紀雄 1992.8 (p48-49、p275-267、p279-286)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000287249