レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年05月15日
- 登録日時
- 2012/11/09 18:57
- 更新日時
- 2014/09/02 16:41
- 管理番号
- 10-3A-201211-02
- 質問
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解決
西村捨三について知りたい。
- 回答
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西村捨三は、天保14(1843)年江州彦根藩士西村又治郎の三男として生まれ、10歳で、藩主井伊直憲の小姓役として側近に仕えました。明治2(1869)年、版籍奉還のあった年、新政府が、各藩から有能な人材をあつめるため貢士制度をもうけましたが、西村は彦根藩から選ばれて公議所に出仕しました。1872年、藩主が洋行する際に現職のまま随行し、2年間欧米各国の行政制度を視察、のち内務省議事官、警保局長をつとめ、1883年沖縄県令(知事)、一たん内務省に帰って土木局長、1889年47歳で、6代目の大阪府知事に栄進しました。大阪府知事時代は、淀川治水対策、1889年大流行したコレラ病の対策、1890年の新町の大火の対策と課題が山積みでしたが、一つ一つ行政手腕を発揮し府民の信頼に応えました。1891年農商務次官に栄転し、1893年退官、1897年、大阪市会の決議で大阪築港事務所長に発令されました。西村の年俸は6千円、田村市長が3千円だったそうです。
「商都大阪の命脈は港にあり」とする市民の強い要望により着手された築港工事でしたが、実施の上では海上埋立に対する大縄権(今日でいう公有水面埋立権)の解決問題、軟弱の海底に対する防波堤築造の困難や築港公債の売行き問題など数々の困難に直面しました。また1899年12月8日、航行中の石材運搬船が沈没、船長以下21人が死亡する事故があり、あるいはコンクリートブロックに亀裂が生じたことなどから市会で問題となることもありました。『大阪港の生い立ち』p62~68、『大阪港のあゆみ』p36~43には築港事務所、築港公債、築港起工式、防波堤の築造などの写真が掲載されています。
このような数々の難問に取り組んできましたが、第一期工事が八分通りできあがったとき、西村は病気のため退職します。朝日新聞主筆の西村天囚は「衣冠の侠客、酔処翁に送る」と題する次のような社説を掲げ、その辞任を惜しんでいます。「(前略)御祭政略となり之を行るに弄世の想、驚俗の肝を以すす、君はけだし衣冠中の侠客なり(中略)君の吾大阪の為につくしたる功績不朽に伝うべき者彼の如く甚だ多し、以って君の功績は淀川の流れ金剛飯盛の緑と共に長く大阪人土の心目に銘すべし」
西村は郷里の彦根に引退し、1908年1月14日に死去。66歳でした。
今日の大阪港の基を築いた西村捨三の銅像は、大阪港を見下ろす天保山公園にあります。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 近畿地方 (216 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 河海工学.河川工学 (517 9版)
- 参考資料
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- 当館書誌ID <0000157032> 大阪市の群像 -大都市創造に挑む壮絶なドラマ- 第2巻 池尻 一寛/著 恒友出版 1987.11
- 当館書誌ID <0000393617> なにわの石碑(いしぶみ)を訪ねて 杵川 久一/著 新風書房 1994.5 4-88269-276-7
- 当館書誌ID <0070067244> 郷土史にかがやく人々 [1] 大阪府 1968
- 当館書誌ID <0080074730> 日本の歴代知事 第2巻 下 歴代知事編纂会/編集 歴代知事編纂会 1981
- 当館書誌ID <0000185058> なにわ人物譜 藤本 篤/著 清文堂 1984.5 4-7924-2204-3
- 当館書誌ID <0000164156> 実記百年の大阪 読売新聞大阪本社社会部/編 朋興社 1987.1 4-938512-04-1
- 『大阪港の生い立ち』大阪市港湾局 1959 <当館書誌ID: 0070080496>
- 『大阪港のあゆみ』大阪市港湾局 1957 <当館書誌ID: 0000337228>
- キーワード
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- 西村捨三
- 大阪築港
- 大阪府大阪市港区
- 大阪府知事
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000113882