レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年05月13日
- 登録日時
- 2016/05/13 11:54
- 更新日時
- 2023/02/10 16:02
- 管理番号
- 101
- 質問
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解決
天正年間に織田信長にそむいた荒木村重の謀反について調べたい。
1 村重が謀反を起こした理由は何か?
2 村重はなぜ本拠の伊丹有岡城から息子・村次がいる尼崎城に逃亡したのか?
その尼崎城とはどこにあったのか?
3 織田信長が村重一統を処刑した場所は「七松」と記録されているというが、どこにあたるのか?
- 回答
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信長のもと摂津を治めていた荒木村重が、天正年間に信長に対してそむいた理由は、戦国史の大きな謎のひとつと言われています。
さまざまな説が考察されていますので、瓦田昇著『荒木村重研究序説』などの基本研究文献を参照してみてください。
2については、従来『信長公記』の記述などをもとに、村重は数人を引き連れてこっそり尼崎城へ逃亡したと言われてきました。これを根拠に、家族や家臣を見捨ててひとり生き延びた卑怯な男という見方がされてきました。近年は、乃美文書を典拠として、村重は数百人の部隊を率いて尼崎城に移る武力行動を行なったと指摘し、水運を通じて反信長の与党である本願寺や毛利氏との連絡・補給路を扼する尼崎城の維持を重視したのであり、合理的武力行動とみる天野忠幸氏の研究が発表されています(尼崎市立地域研究史料館紀要『地域史研究』第114号掲載論文)。こういった各種の研究文献を、参照してみてください。
なお、村重時代の尼崎城は、近世尼崎城とは異なり大物(だいもつ)の西にあったと考えられています。これについては、尼崎市立地域研究史料館がレファレンス協同データベースに掲載した別のレファレンス事例をご参照ください。
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000141788
3については不明です。昭和戦前期発行の寺阪五夫編『立花志稿』は、地元の古記録などを引いて考察を加え、処刑地は七松の集落よりも東側、近代には隣接大字である三反田の小字であった「アシハラ」付近の可能性について言及しています。
なお、七松八幡神社(現七松町3丁目)境内には、処刑された荒木一統の慰霊碑が建立されています。
- 回答プロセス
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1 荒木村重の謀反について記録する従前の基本文献
◆太田牛一著『信長公記』 巻十二 天正七年
◆『尼崎市史』第2巻(1968)、『伊丹市史』第2巻(1969)
いずれも該当個所は八木哲浩(あきひろ)執筆、『信長公記』などを引いて論じている。
◆八木哲浩編、伊丹資料叢書4『荒木村重史料』(1988)
荒木村重に関する各種文書・記録等を集成した史料集
◆瓦田昇「荒木村重謀反の周辺」
尼崎市立地域研究史料館紀要『地域史研究』第4巻第3号(1975.2)掲載
瓦田氏はこのほか、『春日丘論叢』等に一連の荒木村重研究論考を発表している。
◆瓦田昇『荒木村重研究序説』(1998)
上記瓦田氏の研究を集大成したもの。
◆荒木村重研究会会報『村重』(2001年創刊)
2 村重謀反に関する最新の研究論文
◆天野忠幸「荒木村重の戦いと尼崎城」
尼崎市立地域研究史料館紀要『地域史研究』第114号(2014.10)掲載
乃美文書中の乃美宗勝(毛利水軍の将)宛村重書状を典拠に、村重の有岡城から尼崎城への移動は数百騎を率いての武力行動と指摘。
そのうえで、有岡城・尼崎城・花熊城(現神戸市)を押さえる村重が、本願寺-毛利の水運ライン維持を意識しての合理的軍事行動とみる。
◆砂川博「荒木村重の尼崎城「移」動-検証『信長公記』「荒木村重書状」『立入左京亮入道隆佐記』-」
尼崎市立歴史博物館紀要『地域史研究』第120号(2021.2)掲載
上記天野忠幸氏の論考への批判として、『信長公記』等史料を再検証。
◆砂川博『天正六年十月 荒木村重「逆心」-伊丹有岡城から尼崎城へ』(2023)
上記『地域史研究』掲載論文も収録し、このテーマについて筆者の研究全体をまとめたもの
3 荒木一統処刑地について考察する文献
◆寺阪五夫編『立花志稿』(1940)
同書第一篇のうち「七松」の項において、処刑地について考察。地元に伝わる記録「岡村由緒記」を引用。
「摂津守殿子孫迄仕置にす、七松村東芦原と申所に爾今はつつけ田の異名在之…」
さらに寺阪は、この「芦原」(東芦原)は近代には三反田の小字で七松集落の東に位置し、この地に元坊主塚と称する古墳があり東海道線敷設の際取り壊されたという伝承にも言及し、村重一族被処刑者遺骸を合葬したのではないかと考察している。
◆落合重信「地名からみた尼崎地域」
尼崎市立地域研究史料館紀要『地域史研究』第1巻第3号(1972.3)掲載
のちに同著『地名研究のすすめ』(1982)第3章収録
上記『立花志稿』を引いて考察を加えている。
◆「荒木一族の処刑」(河野未央執筆)
大江篤編『尼崎百物語』(神戸新聞総合出版センター、2016)掲載
『信長公記』の七松での処刑記事と、七松八幡神社境内の供養碑を紹介。
- 事前調査事項
- NDC
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- 近畿地方 (216)
- 参考資料
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- 太田牛一著『信長公記』角川文庫 1970 (当館請求記号 289.5/オ)
- 『尼崎市史』第2巻 尼崎市 1968 (当館請求記号 219/A/ア-2)
- 『伊丹市史』第2巻 伊丹市 1969 (当館請求記号 219/S/イ-2)
- 八木哲浩編 伊丹資料叢書4『荒木村重史料』伊丹市 1988 (当館請求記号 219/S/イ-4)
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瓦田昇「瓦田昇「荒木村重謀反の周辺」
尼崎市立地域研究史料館紀要『地域史研究』第4巻第3号(1975.2)掲載 (逐次刊行物) - 瓦田昇『荒木村重研究序説』海鳥社 1998 (当館請求記号 289.5/S/ア)
- 荒木村重研究会会報『村重』 2001創刊 (逐次刊行物)
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天野忠幸「荒木村重の戦いと尼崎城」
尼崎市立地域研究史料館紀要『地域史研究』第114号(2014.10)掲載 (逐次刊行物) - 寺阪五夫編『立花志稿』立花村 1940 (当館請求記号 219/A/テ)
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落合重信「地名からみた尼崎地域」
尼崎市立地域研究史料館紀要『地域史研究』第1巻第3号(1972.3)掲載 (逐次刊行物) - 落合重信『地名研究のすすめ』国書刊行会 1982 (当館請求記号 290/A/オ)
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砂川博「荒木村重の尼崎城「移」動-検証『信長公記』「荒木村重書状」『立入左京亮入道隆佐記』-」
尼崎市立歴史博物館紀要『地域史研究』第120号(2021.1)掲載 (逐次刊行物掲載論文) - 砂川博『天正六年十月 荒木村重「逆心」-伊丹有岡城から尼崎城へ』岩田書院 2023
- キーワード
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- 荒木村重
- 織田信長
- 有岡城
- 尼崎城
- 七松
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000192166