レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年12月26日
- 登録日時
- 2022/01/14 14:43
- 更新日時
- 2022/01/14 14:43
- 管理番号
- 横浜市中央2639
- 質問
-
解決
横浜市南区の蒔田から弘明寺に向かう「かまくらみち」にあった「巡礼橋」についての資料を探している。橋の名前の由来についてもわかると良い。
- 回答
-
1 巡礼橋跡について
横浜市南区井土ヶ谷中町58付近に「巡礼橋」の親柱跡があることが以下の資料に掲載
されています。
(1)『南区の魅力ガイドブック』魅力づくり・ホット・みなみプロジェクト 2000.03
p.17 永田・六ッ川の丘のイラストマップに「巡礼橋の跡(井土ヶ谷中町58付近)」
の記載があります。
(2)『大岡川流域の歴史探訪 シリーズ3 ヨコハマの母なる川』
南区生涯学級大岡川流域の歴史を探る会/企画・編集
横浜市南区役所地域振興課 2004.4
p.5 巡礼橋付近〈井土ケ谷上町・中町〉に「この付近一帯は、昔は田んぼでここに
六ッ川方面からの川が流れていて、保土ヶ谷と弘明寺を結ぶ旧道(かまくら道)
に架かっていた橋が巡礼橋であった。現在は暗渠に変わったが以前は橋の際
に庚申塔・元禄2年(1689)があった。現在は住吉神社にある。」とあります。
(3)『みなみ歴史と町なみ散歩道 散歩マップ。13コース』
南区市民学級・南区を知ろう会/編 南区市民学級・南区を知ろう会 2001.3
散策マップ⑦井土ヶ谷・永田南地区 7.巡礼橋付近〈井土ケ谷上町・中町〉に「この
付近一帯は、昔は“たんぼ”で戦前にはここに小川が流れていて、保土ケ谷と弘明寺
を結ぶ旧道(かまくら道)に架かっていた橋が巡礼橋である。以前はこの橋の際に、
庚申塔(元禄2年・1689)、震災供養塔(昭和4年)、弘明寺寄りに馬頭観世音菩薩塔
(大正11年)があった。」とあります。
(4)『みなみ歴史とまちなみ散歩道』みなみ歴史とまちなみ散歩道発刊委員会 1987.3
p.41 巡礼橋際の庚申塔について、記載があります。
以下の資料も確認しましたが、「巡礼橋」に関する記述はありませんでした。
(5)『角川日本地名大辞典』「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編纂 角川書店 1984.6
(6)『日本歴史地名大系』平凡社 1984.2
(7)『南区の歴史』南区の歴史発刊実行委員会 1976
(8)『南・ひと・街・こころ 南の風はあったかい』
南区制50周年記念誌編集委員会/編 南区制50周年記念誌刊行委員会 1994.06
(9)『旧鎌倉街道探索の旅 2』芳賀善次郎/著 さきたま出版会 2017.8
(10)『横浜の橋』小寺篤/著 経済地図社 1973
2 「巡礼橋と夫婦えのき」について
「巡礼橋と夫婦えのき」という民話がありました。内容は次のとおりです。
橋がなく、田へ行くのに遠回りしなければならなかった百姓たちのために、巡礼の夫婦
が地蔵堂の脇に橋をかけた。その後、巡礼夫婦が亡くなったと聞いた村人が巡礼
夫婦のなきがらを、橋のほとりに手厚くほうむり、そのそばにえのきを植えた。
以下の資料に上述の民話が掲載されていました。
(1)『いどがや 創立50周年記念』横浜市立井土ケ谷小学校 1984.10
p.11 「巡礼橋と夫婦えのき」(「横浜の民話より」)
(2)『横浜の伝説 (横浜郷土叢書)』 横浜市図書館 1963
p.58「巡礼橋と夫婦えのき」
(3)『横浜の伝説と口碑 中区・磯子区 (横浜叢書) 』横浜郷土史研究会 1930.11
p.80「巡禮橋と夫婦榎」 橋と榎の写真が載っています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本 (291)
- 伝説.民話[昔話] (388 8版)
- 仏会 (186 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000310712