関連の記述があった資料をご紹介します。
なお、奥州合戦の帰途、源頼朝が中村八幡宮に立ち寄った旨の記述は確認できませんでした。
・『全訳吾妻鏡 2』(貴志正造/訳 新人物往来社 1976)
p.124「文治五年十月」の項、「(十九日)下野國において、宇都宮の社壇に奉幣せしめたまふ。」等、記述があります。
・『吾妻鏡 現代語訳 4』(五味文彦/編,本郷和人/編 吉川弘文館 2008)
p.128「文治5年(1189)10月」の項に、上記資料同様の記述があります。
・『栃木県史 通史編3』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1984)
p.152-161「第二章 第一節 治承・寿永の内乱と下野武士 六.奥州征伐」の項、「奥州平定を一応終えた頼朝は、鎌倉に向け群を発し、帰路宇都宮に立ち寄り、戦勝の奉賽に奉幣した。」とあります。
・『宇都宮市史・宇都宮誌』(田代善吉/著 歴史図書社 1977)
p.24-27「第二編 第二章 頼朝奥州征伐附樋爪五郎」の項、「藤原氏滅びければ、頼朝鎌倉に凱旋す、其途中又宇都宮明神に奉賽し生捕せし樋爪太郎俊衡が一族を明神社の社職となせり。」とあります。
・菅野 文夫「文治5年奥州合戦三題 : 『吾妻鏡』演習から」『岩手大学文化論叢』岩手大学文化論叢編集委員会 第10輯 2021 p.1-10
p.7-9「鎌倉軍の往路と帰路、そして奥羽の吉書始-9月20日条など-」の項、本文中に「(往路について)いつ、どこに到着したかが、その時刻も含めて几帳面に書き込まれている(略)後半の帰途はそうではないところが興味深い」とあります。
また、「10月19日には下野国宇都宮に奉幣した」とあります。
なお、奥州合戦の帰路についての記述は確認できませんでしたが、源頼朝と中村八幡宮に関する記述を確認できた資料を参考までにご紹介します。
・『栃木県神社誌』(栃木県神社庁/編、発行 1964)
p.294「第四章 第五節 芳賀地区概観」の項、「中村八幡宮の宝物 右大将源頼朝卿社領寄付簡札 建久四年六月神田寄進奉賽の簡札である」とあります。
p.305-306「中村八幡宮」の項、〔由緒沿革〕の本文中に、「文治五年右大将頼朝藤原泰衡征伐のとき前例にならひ、当社に詣て戦勝を祈る。」とあります。
・『真岡市史 第6巻』
p.770-773「第11章 真岡地方の寺社 中村八幡宮」の項に、「(社伝によれば)文治五年(1189)七月、源頼朝が藤原泰衡を追討するために奥州へ向う際に、当社に戦勝を祈願し、当地の領主であったという中村宗村も祈願し、活躍することができたことから、その折の軍配を当社に奉納した。」とあります。
以下の資料はお調べしましたが、関連の記述を確認できませんでした。
・『日本史大事典 第3巻』(平凡社 1993)
・『栃木縣史 第7巻(古城址編)』(田代善吉/著 臨川書店 1972)