レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017年11月01日
- 登録日時
- 2018/01/23 19:14
- 更新日時
- 2018/04/26 11:00
- 管理番号
- 名古屋市鶴-2017-025
- 質問
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解決
尾張出身の戦国武将が全国に散らばり、一時は尾張の方言が標準語のようになったそうだが、そのようなことが書かれた本はないか。
- 回答
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ご質問の内容と若干異なりますが、織田信長・豊臣秀吉と尾張出身者が二代続いたことにより、京都の言葉が尾張の方言と混ざって変化したとする史料(『名古屋方言の研究』p.9-10に引用あり)があります。
また、『東京語の歴史』p.105によると、江戸の町ができた当初、その住民の中核は伊勢・上方などの関西方面からの移住者であったため、“江戸初期には「上方語」が通語として用いられ、日常生活のうえで重要なコミュニケーションの具であった”とあることから、江戸初期には尾張の方言と混ざった上方語が共通語として使用されていたと考えてよいのではないでしょうか。
- 回答プロセス
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尾張方言ということから郷土資料コーナーで調べ、『名古屋方言の研究』が見つかりました。同書には「徒然草慰草」と「東雅」が引用されていました。
引用されていた史料を確認すると、「徒然草慰草」の日本古典籍総合目録データベースでの統一書名は「なくさみ草」(松永貞徳著)で、『日本古典文学大辞典』に解説があることがわかりました。『日本古典文学大辞典 第4巻』を確認すると、p.530に“九条植通の言として「信長公の上洛以後、高きもいやしきも都のうちのものいゝみなかはりたることおほし」<二十二段>”と該当部分が引用されていました。なお、『日本の古典 8』所収の「南倶左見草」(国会図書館蔵本の各段の終わりに記された大意の一部を抄出口訳)p.293には、“尾張から信長公が都へ上られて以来、身分の高い人も低い人も都の内の言葉遣いが皆変わってしまったことが多いと仰せられた”とあります。
また、『東雅』p.13に“我十二三の時に、貞徳のいひし事ある也。其幼き比ほひ迄は、京の人の物いひ、今のごとくにはあらず。今の人のいふ所は多くは尾張の国の方音相雑れる也。これは信長、秀吉の二代うちつゞきて、天下の事しり給ひしによれる也。又近きほどは三河の国の方音の移り来れるなりと、いひしとのた給ひし也”とあることが確認できました。
京都の言葉が尾張の方言と混ざって変化したと考えられていたことがわかりましたが、それが標準語となったかについては言及がないため、視点を変えて、江戸の言葉について調べ、『東京語の歴史』の記述を見つけました。
- 事前調査事項
- NDC
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- 方言.訛語 (818 9版)
- 参考資料
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芥子川律治 著 , 芥子川, 律治, 1909-. 名古屋方言の研究 江戸時代編. 泰文堂, 1971.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001255318-00 -
日本古典文学大辞典編集委員会/編. 日本古典文学大辞典 第4巻. 岩波書店, 1984.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I000103232-00 , ISBN 4000800647 -
日本の古典 8. 河出書房新社, 1973.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I012372810-00 -
新井白石 [著] , 杉本つとむ 編著 , 新井, 白石, 1657-1725 , 杉本, つとむ, 1927-. 東雅. 早稲田大学出版部, 1994.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002341291-00 -
杉本つとむ [著] , 杉本, つとむ, 1927-. 東京語の歴史. 講談社, 2014. (講談社学術文庫 ; 2250)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I025614839-00 , ISBN 9784062922500
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芥子川律治 著 , 芥子川, 律治, 1909-. 名古屋方言の研究 江戸時代編. 泰文堂, 1971.
- キーワード
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- 方言
- 名古屋弁
- 名古屋言葉
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土 言葉
- 質問者区分
- 団体
- 登録番号
- 1000228955