レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011/09/03
- 登録日時
- 2012/02/13 02:00
- 更新日時
- 2012/02/14 14:20
- 管理番号
- OSPR11090006
- 質問
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「源氏物語」宇治十帖ではいろいろな人物が都と宇治を往復しています。どういう道筋を行ったのか、時間は、距離は、困難さは、等知りたく、当時(平安時代)の平安京と宇治を一望できる古地図(できるなら詳しいもの)というようなものはあるでしょうか。
物語では牛車や馬などが手段として使われていますが、、史実として、どんな手段でどのくらいの時間をかけて宇治へ行っていたのかわかる本はあるでしょうか。
蜻蛉日記や更級日記等同時代の女流日記では、実際に作者が初瀬観音等に出かける話が出てきますが、これらについてはどうでしょうか。
「源氏物語の鑑賞と基礎知識 橋姫」132p「槇の尾山」記事中に、簡単な4つの経路が示されています。ただこれだけなので、旅としてどんなのであったかは理解困難です。
- 回答
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1.道筋について:『歌枕』<224/1619>p.220から「第二章『源氏物語』地理考証-京都から宇治へ」とあります。そのp.224に「京都から宇治へは木幡山を通過していることは本文で明らかである。現在の国鉄奈良線は京都駅を出て賀茂川を渡り、南へ方向をかえて東山連峰の西麓を山ぞいに南下、伏見桃山の南をまわって山科川を渡り、木幡にいたり、山ぞいに、宇治に達する」とあります。
この本のp.226に「近き程にやと思へば、宇治へおはするなりけり。牛など引きかふべき心まうけし給へり。河原過ぎ、法性寺のわたりおはしますに、夜は明け果てぬ。(東屋、6巻71頁)とある。河原とは賀茂河原のことである。法性寺は今の東福寺を中心に広大な境内を擁していた(村山修一氏「平安京」参照)。それは平安京の東南の外れ、九条河原に面していた。大和、したがって宇治へ行くのに、ここが出発点であったことは、『源氏物語』ばかりでなく、『蜻蛉日記』の長谷詣での項(上巻)に「法性寺のへにしてあか月より出で立ちて、むま時ばかりに、宇治院にいたりつく」...『更級日記』の長谷詣にも 「法性寺の大門にたちとまりたるに、....宇治の渡りに行き着きぬ。」とあるゆえに、当時の順路であったことがわかる。京から宇治へは山科経由とする考え方もある(「古典鑑賞講座」)。しかし法性寺を通るとするとこの説はとることができない。」と書かれています。
『源氏物語の地理』<913.36/230N>p130に『蜻蛉日記』の上の句と『更級日記』522頁の「いと恐ろしう深き霧をも少しはるけむとて、法性寺の大門に立ちとまりたるに、田舎より物見に上る者ども、水のながるるやうそ見ゆるや 」という「法性寺」を詠んだ別の句を揚げて「法性寺の名が共通に出てくるのは偶然ではなく、道綱の母のように一旦の中宿りにしているのは、いよいよ山道にかかる一区切りの場所の意味もあるであろう。....浮舟巻では今度は匂宮が浮舟を求めて宇治路に向かっているが、法性寺で牛車から馬に乗り替えている。これもここから山道に入るためであろう」とあります。
すでにご覧になっている「源氏物語の鑑賞と基礎知識 橋姫」<913.36/210N/4>p.132-133には4つの経路が示されていますが、上記資料では2つの経路が示されています。
2.どんな手段で:『平安貴族の生活』<323/777>P.116に「平安貴族の乗物」という項目があり、その中に「この時代の乗物は車・輿・馬であった。...牛車は貴族の乗物であり馬は武士のそれであった。」牛車の種類として「女房車は女車ともいわれるが、...女性が乗れば女車と呼ばれたのだと考えてよい。...檳榔毛車、糸毛車、半蔀車、八葉車などである。六条御息所のような高貴な身分の者が大臣・大将は乗るものの、五位までに許されている網代車に乗るはずはなく...半蔀車であった。...車は乗る人の身分によって種類が分けられているということがわかるのである。...女房の乗用はたいてい小八葉であった。...女房たちも車の振動にはずいぶん迷惑したであろうことが想像される。ひどく暑い頃には、牛車の後口の簾を挙げて行く牛車はずいぶん涼しそうだという。...月もない真っ暗な夜に牛車をやるとき前駆の者がともす松明の煙の匂いが牛車の中に漂ってくるのはいいものだともいっている。」
3.どのくらいの時間をかけて:『源氏物語の鑑賞と基礎知識no.6 東屋』p.213に上記、「『蜻蛉日記』上巻安和元年9月に「門出ばかり法性寺の辺にしてあかつきより出で立ちて、午時ばかりに、宇治院にいたり着く」とある。法性寺の辺りから宇治まで、夜明け前に出発して、正午頃に到着した。女車で8、9時間かかったようである。」とあります。
時代がずいぶん違いますが参考までに記しますと『文芸春秋65巻16号』p.134に「牛車について言えば戦後貞明皇后の大喪の折は馬車(四頭立て)を使用しました。牛車ですと葬列の速度は1分間83歩、50メートルでしたが、馬ですと1分間に200メートル..」と書かれています。
4.地図について
「当時(平安時代)の平安京と宇治を一望できる古地図」ということですが、平安時代の地図は見当たりません。
『京都宇治川探訪』<291.62/246N>p.7に「京都盆地中央にひろがる巨椋江」という地図に鎌倉時代から室町時代の城を付したもので京都市内南部から木津川や和歌山まで書かれた地図(12cmx10.5cm)があります。
また「豊臣秀吉による大改造後の巨椋江とその周辺」京都二条城から木津あたりが書かれています。(15cmx11cm)
『週刊朝日百科61古代から中世へ』<210/344>p.3-181に「摂政時代の平安京とその周辺」に洛中図(16x20cm)とともに洛外図(8x10cm)があります。
『源氏物語の地理』<913.36/230N>p.137に「源氏物語地図(京外)」(11cmx9cm)があり、上賀茂社から宇治橋あたりまで描かれた地図があります。またp.129に「宇治辺邸第想定図」があります。
5.「蜻蛉日記や更級日記等同時代の女流日記...」については『蜻蛉日記・更級日記 和泉式部日記』<915.33/4N>p34に「隆房卿艶詞絵巻」より北野社詣での女たち。「物詣では王朝の女性たちにとって、気分転換の機会であり、心をやすらかにする手だてでもあった。」と書かれており、王朝の女性たちが歩いて物詣でしている絵が描かれています。p.36に「年中行事絵巻12巻」よりの絵(牛車や馬に乗った王朝の女性とみられる人びとが傘をさして馬に乗っている)があり、「伏見稲荷祭 道綱の母の詣でた稲荷社とは伏見稲荷のこと」と書かれております。p.51に「因幡堂縁起絵巻」より国司の旅のようすが書かれています。
* 宇治市源氏物語ミュージアムを紹介いたします。「源氏物語の世界を体感」とあり、Web上でサイトも見てみますと「平安時代に来たかのように牛車や囲碁をする女性たちを見ることができます」とあります。
[住所] 京都府宇治市宇治東内45-26
[開館時間] 午前9時~午後5時 ※入館は午後4時30分まで
[休館日] 月曜日(祝日の場合はその翌日)・12月28日から1月3日
観覧料:500円
電車の場合]
京阪/宇治線 (京阪本線からは中書島乗換)宇治駅下車 徒歩約8分
JR/奈良線 (JR京都駅~奈良駅)宇治駅下車 徒歩約15分
近鉄/京都線 近鉄大久保駅からバス約15分
バス停京阪宇治下車 徒歩約8分
※できるだけ公共交通機関でお越しください。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 小説.物語 (913 8版)
- 参考資料
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- 『歌枕』(奥村恒哉/[著]平凡社1977)(ページ:224)
- 『源氏物語の地理』(角田文衛/編思文閣出版1999.8)(ページ:130)
- 『源氏物語の鑑賞と基礎知識no.6 東屋』(鈴木一雄/監修至文堂1999.6)(ページ:213)
- 『文芸春秋65巻16号』(文芸春秋 198712)(ページ:134)
- 『京都宇治川探訪』(鈴木康久/編人文書院2007.5)(ページ:7)
- 『週刊朝日百科61古代から中世へ』(朝日新聞社1987)(ページ:3-181)
- 『蜻蛉日記・更級日記 和泉式部日記』(三角洋一/[編集・執筆]新潮社1991.12)(ページ:34)
- 『平安貴族の生活』(有精堂編集部/編有精堂1985.11)(ページ:116)
- 宇治市源氏物語ミュージアム(2011/9/16現在) (ホームページ:http://www.uji-genji.jp/)
- キーワード
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- 宇治十帖 交通
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- その他
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000101436