レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年03月12日
- 登録日時
- 2022/03/15 12:47
- 更新日時
- 2022/06/15 14:31
- 管理番号
- 2021-46
- 質問
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未解決
新居郡神戸村(中西村の記述もある)出身の医師工藤晋平(新平の記述もある)の情報が知りたい。
- 回答
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新居郡神戸村は、中野・中西・洲之内・安知生の4か村が合併して成立した明治22年~昭和19年の自治体名(【資料1】p235)であり、中西村として調査。
当館所蔵の『慶応義塾入社帳 全5巻+索引』(福沢研究センター/編 慶応義塾 1986)【資料2】を確認すると、明治5年に入塾した工藤氏は、索引では「工藤巠(左の字は文字化けする可能性があるが、經の糸偏を除いた字。)平」とあり、第1巻p528に記載があり、筆書き文字での記載となっている。
「工藤晋平」、「工藤新平」、「工藤巠平」について、当館蔵書検索データベース(郷土雑誌の論文タイトル等も検索可能)と、愛媛県生涯学習センターのデータベース「えひめの記憶」(インターネット上で「愛媛県史」等の全文検索可能)を調べたが、ヒットするものがなく、手がかりが得られなかった。
【資料2】の「父或ハ兄弟ノ姓名」の欄に「親完四郎」の記載があり、明治9年の中西村の畝順帳(当館請求番号284・土地の地番ごとの所有者名がわかる資料)で「工藤完四郎」を探したところ、22か所に名前があった。ただし、筆書き文字のため、読み違いや読み落としの可能性もある。
以上、工藤晋平については、何も情報がなかった。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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山田明「軍医後藤幾太郎の前半生と雪中行軍遭難事件経験」『天理大学人権問題研究室紀要』15号 工藤晋平『楽庵遺詠』明治30年、東京府病院進退録など。
明治5年7月に慶応義塾に入り、11月に田代基徳の修文舎に入り、7年に東京府病院雇医となり、8年1月病気退職、同4月に小倉県立医学校教師となる。9年1月退職、上京して神田で開業、10年4月に火災で田代方寄留、再び東京府病院医師、13年に病院廃止の為退職、岩手県の公立病院に勤め、18年退職、教え子だった後藤幾太郎の看病のため函館に行き、そのまま函館で開業、明治30年がん発病、後藤らの付き添いで帰郷、そこで没。
- NDC
- 参考資料
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- 【資料1】『角川日本地名大辞典 38 愛媛県』(角川書店 1981) <当館請求記号:K290-55>
- 【資料2】『慶応義塾入社帳 全5巻+索引』(福沢研究センター/編 慶応義塾 1986) <当館請求記号:377.28-70>
- キーワード
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- 工藤晋平
- 新居郡神戸村
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌的事項調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000313589