レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20180313
- 登録日時
- 2018/03/31 00:30
- 更新日時
- 2018/03/31 00:30
- 管理番号
- 福郷-053
- 質問
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解決
福岡藩の黒田家上屋敷が、慶長年間の絵図では、大名小路(今の丸の内)にあるが、江戸中期には霞ヶ関に移っている。いつ移転したのか知りたい。
大名小路の屋敷は、その後、岡山藩の池田家上屋敷となっている。
- 回答
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『藩史大事典』第7巻p.25には、福岡藩の江戸上屋敷は、所在地は「桜田霞ヶ関」で、時期は「文化期」と記載されている。(出典は『文化武鑑』とある)
『福岡県史』の「通史編福岡藩(1)」p.207-210に、江戸藩邸について記述があり、以下のことがわかる。
慶長11年の「慶長江戸図」では、江戸城のうち、外濠の間に主要な譜代・外様両大名の邸地が書きこまれており、「黒田筑前守」(長政)の邸地も確認できる。
その後、桜田の邸地に移っている。
①慶長20年4月に、長政が妻子を江戸に人質として送った先が「桜田の御屋敷」だった。
②寛永9年9月、黒田騒動に際して、時の藩主忠之は江戸の「桜田の第に居給ふ」と「黒田年譜」にある。
このことから、寛永9年(1632)年を指して、「当時すでに和田倉門の対岸の邸地を手放し、桜田門より虎之門に至る道筋の西側、すなわち桜田の邸地に移っていたのであろう」と記述している。
その傍証として、同年の「武州豊嶋郡江戸庄図」を挙げ、東京大学総合図書館所蔵の図版をp.209に掲載している。
※同じ絵図が国立国会図書館にも所蔵されていて、国立国会図書館デジタルコレクションの『武州豊嶋郡江戸〔庄〕図』は、インターネット公開されている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286168
書誌事項では、「〔寛永9(1632)頃〕刊」となっている。(永続的識別子:info:ndljp/pid/1286168)
『江戸屋敷三〇〇藩いまむかし』p.142-147によると、福岡藩上屋敷跡は、外務省となっている。
福岡市博物館の企画展示No.274「福岡藩の江戸屋敷―霞ヶ関・赤坂・渋谷・白金」平成18年1月24日(火)~3月26日(日)の展示シートが福岡市博物館のアーカイブズで公開されている。
http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/274/index.html
「外桜田霞ヶ関にあった福岡藩上屋敷」、「現在の霞ヶ関」の写真が掲載されている。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 九州地方 (219 8版)
- 参考資料
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- 1 藩史大事典 第7巻 木村 礎/編 雄山閣 2015.12 K203//ハ p.25
- 2 福岡県史 通史編[3] 西日本文化協会/編纂 福岡県 1998.3 K209//フ p.207-210
- 3 江戸屋敷三〇〇藩いまむかし 有楽出版社 2008.4 291/36/176 p.142-147
- 1 国立国会図書館デジタルコレクション 『武州豊嶋郡江戸〔庄〕図』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286168 2018.3.13最終確認
- 2 福岡市博物館 福岡藩の江戸屋敷―霞ヶ関・赤坂・渋谷・白金 http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/274/index.html 2018.3.13最終確認
- キーワード
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- 福岡藩 黒田家
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000233897