レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年09月14日
- 登録日時
- 2013/09/14 11:13
- 更新日時
- 2013/09/14 11:22
- 管理番号
- 20130914-2
- 質問
-
解決
閻錫山について知りたい。
- 回答
-
閻錫山 【えんしゃくざん】 コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E9%96%BB%E9%8C%AB%E5%B1%B1 (2013/09/14確認)
世界大百科事典 第2版
えんしゃくざん【閻錫山 Yán Xī shān】 1883‐1960
中国,山西軍閥の統領。山西省五台県の生れ。字は百川。日本留学中に同盟会に加入,辛亥革命に参加して山西都督となる。以後独自の建設計画を遂行しつつ山西を地盤に独立した政治勢力を築き,〈山西王〉とよばれた。1927年北伐に協力したが,30年馮玉祥(ふうぎよくしよう)らと反蔣戦争を起こし,失敗。以後蔣介石の〈消極抗日,積極反共〉と歩みをともにし,抗日戦争後ともに内戦を起こす。49年太原から台北へ逃れた。・・・
閻錫山(えんしゃくざん) Yahoo!百科事典[日本大百科全書(小学館)]
[現地読み:ヤンシーシャン]
(1883―1960)
中国の軍人、政治家。山西(さんせい/シャンシー)省五台(ごだい/ウータイ)県の人。1909年(明治42)日本の陸軍士官学校歩兵科を卒業。辛亥(しんがい)革命に参加。以後、民国時代を通じて事実上の山西王国を築いた。とくに1917~1927年、1932~1937年には「山西モンロー主義」を唱え、風俗改革、工鉱業振興に努めたが、農民にとって切実な土地問題には反動的政策に終始した。・・・
デジタル版 日本人名大辞典+Plus
閻錫山 えん-しゃくざん
1883-1960 中国の軍人。
光緒9年9月8日生まれ。辛亥(しんがい)革命に参加。中華民国時代には山西モンロー主義をとなえて山西王国をきずいた。1949年人民解放軍と太原でたたかうが敗北。台湾にのがれ国民政府の役職を歴任した。1960年5月23日死去。78歳。日本の陸軍士官学校卒。字(あざな)は百川。
デジタル大辞泉
えん‐しゃくざん 【閻錫山】
[1883~1960]中国の軍人・政治家。辛亥(しんがい)革命を機に、山西省の軍および政権を握った。対日戦中は蒋介石(しょうかいせき)に協力。国民政府(台湾)の行政院長兼国防部長。イェン=シーシャン。
えんしゃくざん【閻錫山】 国史大辞典
Yen Hsi-shan
一八八三 - 一九六〇
中華民国時代の軍閥。一八八三年十月八日山西省五台県で半農半商の家に生まれる。字は百川。山武備学堂卒業後、官費留学生として赴日、振武学校、弘前歩兵第三十一連隊候補生を経て、一九〇九年士官学校卒業。在日中、同盟会にはいり、辛亥革命の際は標統(連隊長)で、清軍と戦って敗れたが、一二年民国成立で山西都督に就任。以後中華民国三十八年間を通じ事実上の山西王として、地方軍閥中唯一の長命を保った。軍閥としては直隷派に属しつつも山西モンロー主義を唱えて内治に専念し、模範軍閥とされた。二七年国民革命へ寝返り、翌年北京攻略後、内政部長、陸海空軍副総司令。三〇年馮玉祥・汪兆銘の反蒋戦に参加し北平新国民政府の主席となったが、失敗して大連に亡命した。翌年帰郷し、三二年山西王の地位に戻り、再び山西モンロー主義をとり、省政十年建設計画をたて、省営公司をおこし、土地村有制を唱えた。・・・
[参考文献]
『閻錫山早年回憶録』、陳少校『軍閥別伝』
大同の路 閻錫山 著 大同学社, 1952
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/389549.html (2013/09/14確認)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 中国 (222 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 政治史.事情 (312 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 閻錫山 えんしゃくざん
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000137141