レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年4月18日
- 登録日時
- 2013/07/23 12:03
- 更新日時
- 2013/09/16 16:49
- 管理番号
- 中央-1-00541
- 質問
-
解決
明治時代、虎ノ門付近で起きた事件で、来島恒喜(クルシマ,ツネキ)という人物が大隈重信に爆弾を投げつけて自殺したという事件があった。
その現場は現在ではどこになるか。また、事件に関する詳しい資料があれば教えてほしい。
- 回答
-
現在の外務省(霞ヶ関一丁目一番地)の正門前ではないかと思われる。
以下の資料を紹介した。
・『明治時代史大辞典 1 あ〜こ』 宮地 正人/編 吉川弘文館 2011
・『大隈重信叢書 第1巻 大隈重信は語る』 [大隈 重信/著] 早稲田大学出版部 1969
・『大隈重信 下 進取の精神、学の独立』 榛葉 英治/著 新潮社 1985
・『大隈重信 三代宰相列伝』 渡辺 幾治郎/著 時事通信社 1958
・『ベルツの日記 第1部 上(岩波文庫)』 [ベルツ/著] 岩波書店 1972
・『維新と興亜に駆けた日本人 今こそ知っておきたい二十人の志士たち』 坪内 隆彦/著 展転社 2011
・『テロルの系譜 日本暗殺史ちくま文庫)』 かわぐち かいじ/著 筑摩書房 2002
- 回答プロセス
-
・『新聞集成明治編年史 第7巻 憲法発布期』(中山 泰昌/編著、財政経済学会、1968)p.326に事件当日(明治20年10月19日東京日日新聞)の記事あり。
・『明治時代史大辞典 1 あ〜こ』(宮地 正人/編、吉川弘文館、2011)p.322~323に「大隈重信暗殺未遂事件」の項あり。
明治22(1889)年10月18日午後4時頃、霞ヶ関外務省官邸に入ろうとした大隈の馬車に来島が爆弾を投じた事件であることがわかる。
大隈重信に関する資料を見てみる。
・『大隈重信 歴史人物シリーズ 幕末・維新の群像』 榛葉 英治/著 PHP研究所 1989
p.121に少し記述あり。「この日起こった事件について、『大隈重信は語る』で大隈自身が語っている」という記述あり。
・『大隈重信叢書 第1巻 大隈重信は語る』 [大隈 重信/著] 早稲田大学出版部 1969(埼玉県立熊谷図書館所蔵)
p.267~271 暗殺者に爆裂弾を投げられた当時の追懐説 で載っている。
・『大隈重信 下 進取の精神、学の独立』 榛葉 英治/著 新潮社 1985
p.162~164に記載あり。外務省正門前であることがわかる。
・『大隈重信 三代宰相列伝』 渡辺 幾治郎/著 時事通信社 1958
p.126~ 事件の詳しい記述あり。
・『ベルツの日記 第1部 上(岩波文庫)』 [ベルツ/著] 岩波書店 1972
p.122~ 詳しい記述あり。
webcat plus!で“来島恒喜”検索
・『維新と興亜に駆けた日本人 今こそ知っておきたい二十人の志士たち』 坪内 隆彦/著 展転社 2011
p.206~219 来島恒喜 p.215に「外務省表門に幌馬車が近づいてきた時にかけより、左から爆弾を投げつけた」と記述あり。
・『テロルの系譜 日本暗殺史ちくま文庫)』 かわぐち かいじ/著 筑摩書房 2002
p.36~67 綺異譚 来島恒喜 p.62によると、外務省大門路上と書かれている。
外務省の場所を確認する。
・『外務省の百年 上巻』 外務省百年史編纂委員会/編 原書房 1979
p.49~ 二.霞ヶ関
三年閏12月11日(1871年1月31日) 外桜田霞ヶ関の民部省があったところに移転、これより今日にいたるまで外務省はここであるとの記述あり。
・『外務省の百年 下巻』 外務省百年史編纂委員会/編 原書房 1979
p.1199~ 第二章 外務省庁舎及び外務大臣官邸の変遷
明治三年十二月十一日(1871年1月31日)に外務省は霞ヶ関に移転し、今日に至っている、との記載あり。
p.1205 霞ヶ関一丁目一番地に移ったとの記載あり。
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 来島恒喜
- 大隈重信
- 外務省
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000134161