ウィキペディアに引かれる参考文献は渡辺雅司『明治日本とロシアの影(ユーラシア・ブックレット)』(東洋書店2003)だが所蔵なし。『国史大辞典』にも記述なし。当館蔵書では平野岑一『文字は踊る』(大阪毎日新聞社 1931 )の152~154ページに「『魯西亜』と『支那』」があり、それには「明治二十二、三年ごろまでは、当時の帝政ロシアを『魯西亜』と書いてゐた。わが公文書にも、その字を用ひてゐた。これに対して『魯』の字は、『おろかもの』の意味であるといふので、ロシア政府から、わが政府に抗議して來た。その後は、『魯』のかはりに、『露』の字をあてるやうになつた」とある。
ただし、『日本経済新聞』2012.9.11. 6:30Web版に小林肇「ロシアの漢字略称「魯」が「露」に変わったワケ」があり、これによると「1855年の条約では「魯」の字が当てられたわけです。それが1875年の樺太千島交換条約の条文では「魯」に代わって「露」が使用され、以後「露」表記が主流になっていきます」・「幕末・明治期の歴史学者、重野安繹(しげの・やすつぐ)は1904年に行った講演で、1872年か1873年ごろにロシアから「魯と云うのは魯鈍の魯の字であって、字が悪いから露の字に変えろ」という照会があったと述べています(「歴史評論」457号の熊沢徹氏の論文による)」とあり、外交上の呼称変更は平野の記述より古くなるものと思われる。ただし外交文書以外で「露」が一般化するのは1880年代に入ってからで「中外物価新報(日本経済新聞の前身)」では「1878年3月23日付には「魯」が、1885年4月30日付では「露」がロシアを表す見出しとして確認でき」るという。なお明治10(1877)年の領事館による抗議云々については小林の記事には記載がない。
小林氏が引いた熊沢徹論文とは「日魯から日露へ--ロシアの呼称」『歴史評論 言葉から歴史を考える<特集>』歴史科学協議会1988 p47~52のことだが、『歴史評論』は所蔵なし。
ちなみに白川静『字統』には、魯の字は「金文には」「みな嘉善の意に用い」る。「金文の魯の字形からいえば、祖祭に魚を薦め、祝祷して魯寿を求めるのが、魯の字義であると思われる。〔論語、先進〕『参(曾子の名)や魯なり』という魯鈍の意は、朴魯よりの転義であろう」と述べられ、本来は「よろこび」「さいはい」「おほい」などの意味で、愚かの意味は転義であるとする。