中田敬義(なかた・たかのり、1858~1943)は、加賀国(石川県)金沢出身で、1876年(明治9年)に外務省に入省しました。北京、ロンドンなどでの在外勤務を経て、1891年(明治24年)7月から榎本武揚外務大臣の秘書官となり、外相が陸奥宗光に替わった後も引き続き大臣秘書官を務めました(1896年3月まで)。この間中田は、陸奥外相に同行して日清講和会議に出席するなど、日清戦争や三国干渉、条約改正問題など日本外交の難局にあたって両外相を支えました。特に陸奥外相の信任が厚かった中田は、病床にあった陸奥の『蹇蹇録』執筆を大いに助けたとされます。1895年(明治28年)10月からは政務局長を兼務し、1898年(明治31年)10月に依願免本官となるまでその任にありました。
中田に関する史料に関して外交史料館では、中田が旧蔵していた史料類を「中田敬義文書」として一般利用に供しています。同文書にはおもに、中田自身が関わった壬午事変や条約改正、日清戦争関係の書類のほか、調書類や旧蔵図書などが含まれています。同文書の概要については、「霞関会文庫「中田敬義文書」について」(『外交史料館報』第21号、2007年)に説明があります。また外交史料館所蔵「陸奥宗光書翰」には、陸奥が中田に宛てた書簡が16通含まれています。ほかにも外務省記録「諸修史関係雑件 外交資料蒐集関係」には、中田の口述記録「日清戦争ノ前後」(昭和13年)と「故陸奥伯ノ追憶」(昭和14年)が綴られており、外交史料館で閲覧することができます。