レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2006年10月09日
- 登録日時
- 2006/11/23 02:11
- 更新日時
- 2008/01/29 17:07
- 管理番号
- 島根斐川-郷土-2006-05
- 質問
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解決
荘原小学校にある銅像は、何がモチーフとなっているのか。また、建立の経緯は。
- 回答
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銅像は、二宮金次郎(尊徳)像です。ただし、まだ子どもで一人前でないからとわらじを作って大人に渡している姿で、よく見かける柴を背に負って山からの帰りに本を読んでいる姿の像とは違います。神奈川県のある小学校の像をモデルに作られたといわれています。
最初に像が建てられたのは、昭和12年4月、錦織竹香(にしこおりちっこう)さんの寄付金よって建てられています。しかし、戦争がたけなわとなった昭和17年2月、金属供出で校庭から消えました。(『荘原歴史物語』p.207~208。なお、『開校百年史』によると、供出は昭和17年2月5日。)
戦後、往年の台座の上に晩年の二宮金次郎の像が建立され、昭和24年9月5日に除幕式が行われました。(『開校百年史』p.31)
しかし、この来待石の像のいたみが目立つようになっていたので、初代の銅像を復元することになり、昭和60年4月25日に除幕式が行われました。(『斐川町誌その後2』p.108~109)
なお、初代の銅像のために寄付を出した錦織竹香については、『島根県歴史人物事典』に略歴があります(p.426)。
これによると、安政元年(1854)~昭和20年(1945)、出雲郡神庭村(明治の合併で荘原村になり、昭和の合併で斐川村になる。現在の斐川町)生まれ、本名久美。明治6年小学教員となり、12年松江女子師範学校卒業。島根県女子師範学校教諭兼舎監等を経て、42年奈良女子高等師範学校創設の際教授として迎えられ修身・裁縫を教えた。幼少のころから絵が上手で特に竹を得意としたので竹香と号した。とされています。また、この資料から、像の台座の「至誠報徳」の文字は、この錦織竹香の筆であることがわかります。
- 回答プロセス
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『荘原歴史物語』『開校百年史』から、初代と2代目の像についてのことは確認できる。利用者に確認すると、現在の像は初代の像と同じものということであるが、これらの資料からは、現在、初代の像と同じものが建っているのかがわからない。
そこで、『斐川町誌』『斐川町誌その後1~3』を調べると、『斐川町誌その後2』に、初代の像の復元についての経緯が書かれていた。
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後日、荘原小学校が『二宮尊徳先生像沿革』という小冊子を刊行していたことがわかる。
『荘原歴史物語』では「神奈川県のある小学校の像をモデルに作られた」とされていたが、『二宮尊徳先生像沿革』によると「静岡県小笠郡横須賀尋常高等小学校」を例にしたと記載がある。(静岡県小笠郡横須賀という地名は、『角川日本地名大事典 22 静岡県』(角川書店、1982)によると、小笠郡大須賀町の現行行政地名(p.1275)に記載がある。なお、大須賀町は合併により、現在は掛川市となっている。)
また、2代目の像が晩年の二宮金次郎の像となったことについて、『二宮尊徳先生像沿革』のなかで、「戦前の初代像では児童の虐待になりかねない、児童福祉法(S22.12.12.公布)にもとるのではないかという意見が大真面目に議論されたという。」という記述もある。
- 事前調査事項
- NDC
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- 幼児.初等.中等教育 (376 9版)
- 参考資料
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- 『荘原歴史物語』 (池橋達夫・編著,荘原公民館,2004)
- 『開校百年史』 (島根県簸川郡斐川町立荘原小学校,1976)
- 『斐川町誌その後2』 (斐川町教育委員会,1986)
- 『島根県歴史人物事典』 (山陰中央新報,1997)
- 『二宮尊徳先生像沿革』 (島根県簸川郡斐川町立荘原小学校/島根県簸川郡斐川町立荘原小学校PTA(共同刊行),1990)
- キーワード
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- 島根県簸川郡斐川町立荘原小学校
- 二宮尊徳像
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000031699