レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年02月26日
- 登録日時
- 2013/03/13 10:51
- 更新日時
- 2013/06/12 10:59
- 管理番号
- 埼熊-2012-284
- 質問
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解決
会津藩河陽流は、どのような兵法か。流祖は誰か。
- 回答
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『武芸流派大事典』『武芸流派辞典』等の資料に、流祖について記載があった。
その他、〈河陽流〉について関連の記述のあった以下の資料を紹介した。
事典類を調査
『武芸流派大事典』(綿谷雪、山田忠史編 新人物往来社 1969)
p168〈河陽流(軍法)〉の項あり。
「河宇田酔庵正鑒。一に酔庵ともあり。楠流十七代師範。会津藩では元禄十年、甲州流軍制をあらためてこの流にしたが、天明8年これを廃した。」とあり。〈河陽流〉系譜あり。『武芸流派辞典』(綿谷雪共、山田忠史共編 人物往来社 1963)
p93〈河陽流(軍法)〉の項あり。
「河宇田酔庵正鑒。楠流十七代師範。会津藩では元禄十年甲州流軍制をあらためてこの流にしたが、天明8年これを廃した。」とあり。〈河陽流〉系譜あり。
兵法に関する資料を調査
『日本兵法全集 1 甲州流兵法』(石岡久夫編 人物往来社 1967)
p39-41〈河陽流〉の項に、「河陽流は楠河内守正成の河内からとった流名である。伊南芳通を中興の祖とする。伝によると芳通の楠流の師は河宇田正鑑という人であった。正鑑は酔庵と号し、江戸時代初期に江戸に住していた陰君子であるという。父河宇田永白叟から河陽流の的印相伝を受けていたが世俗を避けて世に出なかったという。」とあり。
p230-278「河陽兵庫之記」あり。
p458-460「河陽流系譜」あり。『日本兵法史 兵法学の源流と展開 上』(石岡久夫著 雄山閣 1972)
p186〈河宇田正鑒〉について記述あり。
「河宇田氏は義夏・永白叟・正鑒の三代にわたって河陽流の楠兵法の的伝を伝えたと称せられる。義夏は天文15年(1546)頃河陽流を伝えており、泉州において細川氏に仕えたが、乱を避けて江戸に住したといわれ、その子永白叟には文禄3年(1594)の跋のある『河陽兵庫之記』があるから、河陽流はこの頃組織化されたものであろう。その子正鑒はもと九州にいたといわれ、父から河陽流的伝を受けたが、江戸初期には江戸に住し、世俗を避けて幽居したと伝えられる。」とあり。
会津藩に関する資料を調査
『続日本史籍協会叢書 3-8 会津藩教育考』(日本史籍協会編 東京大学出版会 1978)
p410-566「古人事歴」収録。
p458-460〈永井定宗〉の項あり。【河陽流】
p497-498〈土屋直連〉の項あり。【河陽流】『わかりやすい会津の歴史 古代・中世・近世編』(長尾修著 歴史春秋出版 2011)
p358「それまでの会津藩の軍制は河陽流であった。元禄十六年(1703)以来八十年余年続いていた。しかし実戦に適さないとみた田中玄宰は、天明七年(1787)実地訓練を重視する長沼流に変更することを提案した。軍事担当の家老北原采女のもとで、深く検討された結果、長沼流兵学の優位性が確信されるに至る。」『福島県史 2 通史編』(臨川書店 1984)
p661「軍制は天明八年(1788)正月河陽流から長品流に変った(『実記』巻231天明八年正月二十九日)」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 古代兵法.軍学 (399 9版)
- 参考資料
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- 『武芸流派大事典』(綿谷雪、山田忠史編 新人物往来社 1969)
- 『武芸流派辞典』(綿谷雪、山田忠史共編 人物往来社 1963)
- 『日本兵法全集 1 甲州流兵法』(石岡久夫編 人物往来社 1967)
- 『日本兵法史 兵法学の源流と展開 上』(石岡久夫著 雄山閣 1972)
- 『続日本史籍協会叢書 3-8 会津藩教育考』(日本史籍協会編 東京大学出版会 1978)
- 『わかりやすい会津の歴史 古代・中世・近世編』(長尾修著 歴史春秋出版 2011)
- 『福島県史 2 通史編』(臨川書店 1984)
- キーワード
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- 武道
- 兵法
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000128810