レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2008年03月14日
- 登録日時
- 2008/03/14 17:19
- 更新日時
- 2018/03/07 16:49
- 管理番号
- 8332
- 質問
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解決
江戸時代讃岐国諸藩の江戸藩邸の金毘羅宮勧請の経緯、年代、当時の状況などを知りたい。
- 回答
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「金毘羅信仰と金毘羅参詣をめぐる覚書-民間信仰と庶民の旅を考えるために」
(守屋毅/著 「金毘羅信仰」(守屋毅/編 雄山閣 1987年発行)所収)に関連する記述があった。
1 勧請の経緯に関する記述はつぎのとおり(189~190頁)
「・・・・「虎御門外京極御藩邸」の金毘羅宮については、『遊歴雑記』(五編)に、「若狭守高或の代とかよ、舎弟
壱岐守高道を本家の家督にせんと隠謀する者ありて、既に内乱に及ばんとする前夜、件の神馬、高或の枕上に
影向し、あはただしき霊夢ありしかば、侫○(○の字は姦の右側に部首りっとう)の悪徒を一々糺明し、滞りなく
家治りて後、いよいよ神験のいちじるしきを感仰し、やがて一社を造立して、金毘羅神を勧請せしより」云々と、
その縁起が載っている。」
「ついで、「下谷生駒家藩中」の場合も、右の『遊歴雑記』によって勧請の由来を見るに、「就中生駒の家は、
人皇百八代後陽成帝の御宇、天正年間までは、讃岐国香川郡高松の城主にて(中略)、高俊の代、天正
十八年庚寅の年、高松を転じて、同国那珂郡丸亀の城主に移され、これより五十弐ヶ年の間、丸亀の
城主たりしが、生駒雅楽頭政持の代、寛永十八年巳の年、故ありて讃州丸亀を転じて、今の羽州由利郡
矢島を拝領し、移れり。されば、昔讃岐に有し時すら、象頭山の月参も心に任せず、況や日参をや。是によりて
国屋敷の内に勧進し崇敬せしより、今も猶代々、下谷上屋敷に金毘羅神を勧請し(中略)、ほとんど百八十五年に
及ぶ(中略)。これ、昔高松、丸亀の二ヶ所に居城せし遺風にして、生駒の金毘羅といへる是也」とある。」
「以下、同じく『遊歴雑記』によって、諸大名の勧請した金毘羅宮の様子をうかがうと、前述虎の門につづけて、
「此因によりて、一族、麻布六本木京極壱岐守、麹町一丁目京極甲斐守、木挽町三丁目京極備後守、以下
四家とも、象頭山金毘羅権現を屋敷内へ勧請し(中略)、しかるに此四五ヶ年以来、小石川見付松平讃岐守の
上屋敷にも、件の神社を経営」云々とあって、讃州ゆかりの大名たちが、競いあうように、その屋敷神に金毘羅
の神を迎えていたことが知られるのである。」
2 当時の状況については、大名諸家は、それぞれの金毘羅宮を家中の鎮守として信仰したばかりでなく、
毎月十日の縁日には、江戸の市井の民に門戸を開いて参拝を許したこと。虎の門の金毘羅と、蠣殻町の
水天宮が江戸の民間信仰を二分していたことなどが、紹介されてる。(190~192頁)
- 回答プロセス
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まず、京極家江戸屋敷金毘羅宮についての過去の調査事例から、「新編丸亀市史2(近世編)」第12章宗教
第3節丸亀と金毘羅(1001頁)を見たところ、参考文献として、「金毘羅信仰」(守屋毅/編 雄山閣 1987年発行)
紹介されていた。
そこで、、「金毘羅信仰」を仔細に見たところ、「金毘羅信仰と金毘羅参詣をめぐる覚書-民間信仰と庶民の旅を考えるために」
(守屋毅/著)に回答文で示した内容の記述があった。
なお、「香川県史」、「新修高松市史」、「多度津町史」、「多度津町誌」には、関連する記述を見つけることはできなかった。
- 事前調査事項
- NDC
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- 神社.神職 (175 8版)
- 参考資料
- キーワード
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- 金毘羅信仰
- 香川県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000042500