レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011/02/23
- 登録日時
- 2011/07/12 02:01
- 更新日時
- 2011/07/26 13:56
- 管理番号
- 埼熊-2011-026
- 質問
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解決
江戸時代の人物荻原重秀について次のことを知りたい。
(1)荻原重秀が江戸の目明かし廃止に反対したという話をみた(インターネット)が、それについての資料はあるか。
(2)重秀の息子「ノリヒデ」の上司が大岡忠相だった時期があると聞いた。このことについて書いてある資料が見たい。
- 回答
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(1)『史学雑誌 89編10号』に収録されている「新井白石自筆「荻原重秀弾劾書」草稿」などの中に、正徳2年9月5日将軍家宣が評定所に出した書付の中の目明しの停止について、荻原重秀が反対した旨の記述を見ることができる。
(2)『大岡忠相』(人物叢書)などに、享保7(1722)年、大岡忠相が南町奉行だった時代に、町奉行の支配を受ける関東筋新規御代官に就いたことが記載されている。ただし、直属の家来ではなかったもよう。
(1)について
雑誌『史学雑誌 89編10号』(史料)
p38-史料紹介「新井白石自筆「荻原重秀弾劾書」草稿」
p42上段に「(口問の者の事被仰出候赴、・・・彼等の事共停廃すべき事の由奉承知候上は、我等方にてはまづ口問の事停止し候由申出し候に、)荻原近江守、口問のものを停止せられば此のち穿鑿の事拷問に及ばるべきや、すべて此御書出のごとくにては事のさしつかへになるべき事共有之候へば、今一往うかがひの上に、口問のものなどの事も其沙汰有之事に候ものを、と申し候に付いて・・・」とあり。
口問:めあかし、おかっぴき(p49注による)
新井白石が荻原重秀の罷免を主張して上程した上奏書の草稿で、荻原の行状を記述している。
これが以下のすべての出典になっているものと思われる。
『鳶魚で江戸を読む 江戸学と近世史研究』(山本博文著 中央公論新社 2000)
p171-2「三田村氏の目明し像」の中に「一人勘定奉行荻原重秀のみが現実にかれらを使わないで犯罪捜査を行うのは困難であると、反対意見を開陳したことが知られている」(『サムライの掟』読売新聞社)とあり。
『サムライの掟』(山本博文著 中央公論新社 2001)
p130「すご腕官僚」に、新井白石の弾劾状から取り上げた、正徳2(1712)年9月5日の将軍家宣の評定所への書付の中の、目明し廃止に反対したことのエピソードがある。
p131正徳2年9月10日付の新井白石の「『荻原重秀弾劾書』草稿」(『史学雑誌』89-10)の紹介あり。
『折りたく柴の記』(新井白石著 桑原武夫訳 中央公論社 1991)
p179に「このたび、評定所に仰せつけられたことについても、重秀は評定所の人びとに向かって、「上様の仰せられたことは適切でない。議論すべき点がある。」と言った。」とあり。
(2)について
『大岡忠相』(大石学著 吉川弘文館 2006)
巻末の略年譜に次のような記述あり。
p289 「享保2(1717)年 大岡忠相が江戸町奉行(南町奉行)に就任する。
p290 「享保7(1722)46歳」の項に「萩原乗秀が関東筋新規御代官に任命され、町奉行の指図を請ける」
※この時期大岡は町奉行。(p41の表「町奉行就任期間・年齢一覧」でも確認できる)
p151「さらに「撰要類集」によれば、七月一三日に荻原源八郎乗秀が、同じく関東筋新規御代官となり、諸事町奉行の指図を請けるとともに、五万石支配を命じられ役料三〇〇俵を与えられた。」(「同じく」というのは前に論じられている岩手氏と同じくということ)
p153「大岡役人集団の全容」中に「②荻原源八郎乗秀」の項あり。解説中に父は荻原重秀、「同年(享保7年のこと)七月に町奉行支配代官となった。」とあり。
大岡忠相が江戸町奉行の時代、町奉行支配代官となっているので上司・部下の関係であったと考えられる。
『武蔵野歴史地理 9 入西地方 続・郷村の発達・新田開発 東京府民政史料』(高橋源一郎編 有峰書店 1973)
p332-「享保の武蔵野開墾」の章あり。
「当時の開墾総支配人は老中大岡越前守忠相で、代官岩手藤左衛門信猶と萩原(荻原の間違い?)源八郎乗秀とは其の命を奉じて、開墾土地を吟味し・・・」とあり。
『大岡越前守』(沼田頼輔著 明治書院 1929)
p121「享保7年6月越前守が関東筋代官指図即ち地方御用掛となった時、武蔵野新田開発の命を受け、その支配岩手藤左衛門荻原源八郎に命じて、これを調査させ・・・」とあり。
『大岡越前守忠相』(大石慎三郎著 岩波書店 1974)
p191新田開発について、大岡忠相が最高責任者であったこと。実際の業務は配下が行っており、初期に活躍したのは岩手藤左衛門であることの記述あり。この他に、「このころはべつに幕府から派遣された荻原源八郎(乗秀)、小林平六らという新田専門の役人もいたため」とあり。
(史料)
『寛政重修諸家譜 10』(続群書類従完成会 1984)
p143〈乗秀〉あり。
「享保7年5月3日上総国東金領におもむき、新墾の地を検すべきむねおほせをかうぶる。7月13日御代官となり、町奉行に属す」とあり。
【インターネット情報】
《東京大学史料編纂所データベース》
〈荻原乗秀〉で検索 以下がヒット。
・享保7年5月3日 幕府、上総国東金に地の開墾すへき者あるを以て、小普請荻原乗秀・代官池田季隆を遺して、之を検す
- 回答プロセス
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(1) 荻原重秀の伝記等を見るが、目明しに反対したという記述は見つからず。
下記の図書の記述から回答に至る。
『鳶魚で江戸を読む 江戸学と近世史研究』(山本博文著 中央公論新社 2000)
p171-「三田村氏の目明し像」の中に「一人勘定奉行荻原重秀のみが現実にかれらを使わないで犯罪捜査を行うのは困難であると、反対意見を開陳したことが知られている」(『サムライの掟』読売新聞社)とあり。
(2) 『寛政重修諸家譜』で荻原重秀、乗秀を確認し、近世の人物に関する参考図書を確認した。
大岡越前守に関する資料を確認した。
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
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- 『史学雑誌 89編10号』
- 『鳶魚で江戸を読む 江戸学と近世史研究』(山本博文著 中央公論新社 2000)
- 『サムライの掟』(山本博文著 中央公論新社 2001)
- 『折りたく柴の記』(新井白石著 桑原武夫訳 中央公論社 1991)
- 『大岡忠相』(人物叢書 新装版)(大石学著 吉川弘文館 2006)
- 『武蔵野歴史地理 9 入西地方』(高橋源一郎編 有峰書店 1973)
- 『大岡越前守』(沼田頼輔著 明治書院 1929)
- 『大岡越前守忠相』(大石慎三郎著 岩波書店 1974)
- 『寛政重修諸家譜 10』(続群書類従完成会 1984)
- キーワード
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- 荻原 重秀(オギワラ シゲヒデ)
- 荻原 乗秀(オギワラ ノリヒデ)
- 大岡 忠相(オオオカ タダスケ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000088359