レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016/01/05
- 登録日時
- 2016/03/03 00:30
- 更新日時
- 2016/03/25 18:35
- 管理番号
- 6000024481
- 質問
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未解決
東寺内町の東方に以前、三本松の大木があり、旗振り通信を行っていたそうですが、正確な場所を教えてください。(「寺内みてあるき―まちと親と子のふれあい―」参照済み)
- 回答
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『豊中の史跡たずね描き』(豊中市立教育研究所)には「吹田市の古い千里山住宅地と寺内との境界」とのみ記載。
『旗振り山』(ナカニシヤ出版)に大阪堂島での米相場を手旗信号で各地に伝えた旗振り通信の中継ルートが地図とともに紹介されていた。
p.164「京都・大津ルート」の概要に、「吹田千里山(桃山・五里山)中継所は、北大阪急行緑地公園駅東方五〇〇mの旧三角点「三本松Ⅰ」(標高八三・〇五m)にあり、河田山一帯が桃畑として花見客で賑わった明治期には、三本松は絶好の眺望の地として知られていた。現在ではその最高所は削られてしまい、同じ場所にある最高地点の標高は約七九mである。私有地であるため立ち入りはできない場所になっているが、今でも柿畑として利用されて果樹園の名残をとどめている。」(河田山とはこの辺りの小字名である『吹田市史』第2巻付図)とある。
同書p.165の地図に、堂島からの第一の中継点として「千里山(三本松)」の場所が示されており、そのそばに「三本松Ⅰ(寺内北公園)」も併記されている。地図に「千里山(三本松)」は昭和52年までの三角点とされ、平成8年からは「三本松Ⅰ(寺内北公園)」との記載もある。p.305には、旗振り場の位置として「吹田市千里山西、緑地公園駅の東方500m」とされ、寺内北公園とはかかれていない。
国土地理院ウェブサイトの「基準点成果等閲覧サービス」で確認すると、東寺内町の寺内北公園付近に二等三角点「三本松1」があることは確認できる。
以上のことからは正確な場所を確定することはできなかった。
- 回答プロセス
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『寺内みてあるき』(豊中市立寺内小学校PTA P.T.A寺内会)p.19に「大阪の堂島でたてられた米相場が、大きな旗を利用して、知らせられるのを望遠鏡などで見て、次の中継地 現在の高槻市の阿武山に おなじように旗を振って知らせ、更に京都に送られたといわれます。」とある。
『豊中の史跡たずね描き』(豊中市立教育研究所)p.100にも「米相場の旗振り山」として掲載あり。明治9年に大阪堂島の米商会所の仲買人が旗で合図していたこととだいたいの位置も記されていた。
堂島の米相場とのことなので、『大阪春秋 総目次・索引集(創刊号~第100号)』、『大阪市史』を確認。
全項目「堂島&米」で蔵書検索したところ『旗振り山』(ナカニシヤ出版)がヒット。旗振り通信についてや中継ルートが詳述されている。
参考文献にあがっている、市内所蔵の『目で見る豊中・吹田の100年』(郷土出版社)や『ききがき吹田の民話』(吹田市市長公室広報課)の内容を確認したが、吹田市の高浜神社にあり「はたふり松」と呼ばれた「鶴の松」や千里丘中のそばふり山(相場ふり山)の記述はある。『すいた歴史散歩』(吹田市教育委員会)p.20にも「千里山の通称三本松の地点」という記載のみみえる。
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 『旗振り山』柴田 昭彦/著(ナカニシヤ出版) (164-169、305)
- 『目で見る豊中・吹田の100年』(郷土出版社) (38)
- 『ききがき吹田の民話』[阪本 一房/文](吹田市市長公室広報課) (37、67)
- 『すいた歴史散歩』吹田郷土史研究会/著(吹田市教育委員会) (20、24)
- 『吹田市史』第2巻 吹田市史編さん委員会/編(吹田市役所) (付図)
- 『豊中の史跡たずね描き』福西 茂/著(豊中市立教育研究所) (100)
- キーワード
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- 旗振り通信(ハタフリツウシン)
- 三本松(サンボンマツ)
- 寺内(テラウチ)
- 東寺内(ヒガシ テラウチ)
- 堂島(ドウジマ)
- 米相場
- 米商会所(コメショウカイジョ)
- 伝達
- 旗振り山(ハタフリ ヤマ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土,地名
- 質問者区分
- 庁内
- 登録番号
- 1000188779